認められたくて始めたわけじゃないと思っていた
資格を取ろうと決めたあの日、自分では「もっと自由になりたい」「手に職をつけたい」なんて思っていたつもりだった。でも、今になって冷静に振り返ると、もしかしたらその奥には「誰かにすごいねって言われたい」という気持ちがあったのかもしれない。そう気づいたのは、司法書士として独立して何年も経ってからだ。誰にも認められなくても地道にやり続けている今の自分と、あの頃の妙に気負っていた自分とが、どうも一致しない。あの頃、心の中にいたのは「今の自分じゃダメだ」という焦りと、何者かになりたいという渇望だったのかもしれない。
動機は純粋なものだったはずだった
周りの誰かがすごい資格を取ったと聞いても、「自分は自分だ」と思っていた。社会人経験を経て、ただ目の前の仕事を頑張るだけじゃ限界があると感じたのも確かだ。だからこそ、自分の力で仕事ができる資格に惹かれた。これは前向きな動機だ、間違っていないと思い込んでいた。でも、その中には「誰かに認めてもらいたい」という見えない動機が潜んでいたんだろう。心の奥底では、きっと「今の自分じゃ誰にも評価されない」という痛みがあったのだと思う。
でも振り返ると心のどこかで誰かを見ていた
大学時代の友人が大手企業で出世していく姿。SNSで資格試験に受かりましたと喜ぶ知人の投稿。それを見て「へえ」とか言いながら、内心では焦っていた。別に競っているつもりはなかったはずなのに、自分だけが取り残されているような気がしてならなかった。「一発逆転」を夢見て、何かの肩書きを得れば、ようやく周囲に「自分の価値」を示せるんじゃないかと思っていた。でもそれは、他人と比べてばかりいた証拠だ。
元野球部だった頃の褒められ待ちのクセ
思えば、野球部時代からずっと「頑張ってるね」って言われたくて動いていた気がする。レギュラーになったときも、誰かに「お前すげえな」って言われたくて、毎朝ランニングをしていた。でも、実際に褒められても、その場では嬉しいけど、結局また次の称賛を求めてしまう。司法書士になってからも、その構造はあまり変わっていなかった。資格を取れば何かが変わると思っていたが、称賛というのは一瞬で消えるものだった。
資格を取っても誰にも気づかれなかった現実
あんなに頑張ったのに、合格した瞬間を一番祝ってくれたのは自分自身だった。家族は「よかったね」と軽く言ってくれたが、それ以上の感動はなかった。友人に報告しても「へえ、すごいじゃん」程度。拍子抜けするほど日常は何も変わらず、ただ資格があるというだけの人間になった。世の中は思った以上に他人に興味がない。そのことを知って、少しだけ世界が冷たく見えた。
合格通知よりも静かな周囲の反応
封筒を開けたときの震えるような感動は、誰にも伝えられなかった。部屋でひとり、静かに深呼吸して、達成感をかみしめた。だが翌日、職場で報告しても「へえ、じゃあ辞めるの?」と言われただけ。資格を取ったからといって、何か特別扱いされるわけでもなかった。「司法書士ってすごいね」と言ってくれる人もいたけれど、それは単なる社交辞令にすぎなかった。
期待してしまっていた自分が情けない
本当は、自分の変化に誰かが気づいてくれると思っていた。「すごいね、頑張ったね」って、心のこもった言葉がもらえると、どこかで思っていた。でも現実はそんなに甘くなかった。誰も見ていないところで、努力して、失敗して、それでも起き上がって、ようやく合格したのに、世界は何ひとつ変わらなかった。期待していた分だけ、落差にやられたのかもしれない。
家族にもへえの一言だけだった
母親に報告したときのことは今でも覚えている。「司法書士に受かったよ」と伝えたら、「へえ、よかったね」とだけ。その後は夕飯の話になり、まるで自分の合格なんて、今日のメニューと同じくらいの軽さだった。冷たいとかではなく、たぶん実感が湧かないのだろう。こっちは人生をかけて努力していたのに、その熱量が伝わらないことに、どうしようもない虚しさを感じた。
現場に出てからの毎日が地味すぎた
晴れて開業しても、日々の業務は地味で細かいことばかり。誰かに見せたくなるような華やかな仕事なんて、ほんの一部でしかない。実際のところ、書類と格闘し、登記情報とにらめっこして、電話を受けて、ミスを恐れて胃がキリキリする。努力して得た資格なのに、仕事の9割が地味で緊張感の連続だ。派手さとは無縁で、むしろ「よくこんな地味なこと続けてるね」と言われる始末だ。
努力は見えないし結果も派手じゃない
登記が完了しても誰かに感謝されるわけではないし、ミスがなければ当然という空気だ。成果が見えにくい仕事は評価もされにくい。でも、それがこの業界のリアルだと、今はもう受け入れている。努力は誰にも見えないまま、ただ積み重なるだけ。だけど、不思議とそれが嫌いではない。誰かの役に立っていると信じるしかないし、自分自身で納得するしかない。
華やかさを求めるなら別の道だった
司法書士の仕事に、ドラマのような展開やスポットライトはない。むしろ、陰の存在として動くほうが多い。かつて「かっこいい仕事がしたい」と思っていた自分がいたが、今ではそれが幻想だったとわかる。現実はもっと泥臭くて、汗臭い。でも、野球部で泥だらけになっていたあの頃の自分と重なる部分もあって、嫌いになれないのだ。
それでも続けている理由を自問する
なぜ辞めないのか。なぜ続けているのか。答えはシンプルだけど、たぶん「これが自分の場所だ」と感じているからだろう。誰かに認められたいという気持ちは、今もゼロではない。でも、それ以上に、「自分で納得できるかどうか」が今の自分の基準になっている。見返りのない仕事の中に、自分の居場所を見つけられるようになったのだ。
認められたくて始めたならとっくに辞めている
もしも本当に誰かに褒められたくて資格を取ったのなら、あの合格発表の後の反応で心が折れていたはずだ。拍手喝采がないことに耐えられなかったはずだ。でも自分は、静かな現実に飲み込まれながらも、今日までこの仕事を続けている。きっと「認められたい」よりも「やりたい」が、いつの間にか勝っていたのだと思う。
日常の中で少しだけ自分を肯定できる瞬間
たとえば、クライアントから「助かりました」と言われたとき。たった一言でも、それが本音だとわかると、じんわり嬉しくなる。たとえその後に感謝の言葉がなかったとしても、自分のした仕事が役に立っていたという事実は、何よりの報酬だ。そんな小さな「肯定感」を拾いながら、この仕事を続けていけるのだと思う。
たまに助かったと言われると救われる
この前、登記が急ぎの案件で、連絡を密にとって対応したとき、依頼人から「ほんと助かりました」とぽつり。ああ、こういう瞬間のためにやってるのかもしれないと思った。年収でも名誉でもなく、その一言で一日が報われる。報われるためにやってるわけじゃないけれど、そういう一言に支えられて、今日もまたデスクに向かっている。