忙しいふりが癖になっただけの毎日

忙しいふりが癖になっただけの毎日

なぜか忙しそうにしていないと不安になる

静かな時間が流れているときほど、妙にソワソワしてしまう。書類は片付いているし、電話も鳴らない。そんな日は、心のどこかで「今、自分はサボっているのではないか」という妙な焦燥感が湧き上がる。別に誰に見られているわけでもないし、仕事の進捗も問題ないのに、不思議と「何かしているフリ」をしてしまうのだ。司法書士として一人事務所を営むようになってから、誰に指示されるでもなく、勝手に自分にプレッシャーをかける癖がついてしまった。

本当に忙しいのかと問われると困る

「最近どう?忙しい?」と聞かれると、反射的に「いやあ、バタバタしててさ」と返してしまう。でも、内心では「本当に忙しいのか?」と自分にツッコミを入れている。たしかに登記の書類は溜まっていたけど、それも午前中で終わった。午後は掃除して、お茶飲んで、パソコンの前でちょっとネットニュースを見ただけ。そんな日でも、「忙しかった」と記憶を上書きしてしまうのが常。暇だと認めることに、なぜかものすごく抵抗がある。

手を止めるとサボっているような気がして

休憩時間に椅子に座って目を閉じただけで、頭の中では「これは昼寝じゃない、リフレッシュだ」と言い訳が始まる。高校時代、野球部で少しでも手を抜くと先輩から怒鳴られていたあの感覚が、未だに体に染み付いているのかもしれない。動いていない=サボり、という図式が、無意識に自分を追い詰める。法律を扱う職業でありながら、自分自身への“思い込み”にはあまりにも無防備だ。

誰も見てないのに机をガチャガチャする癖

誰もいないはずの事務所で、わざわざ引き出しを開け閉めしてみたり、ペンを並べ直したりする。それも無意識に「働いてる感」を演出してる自分がいる。たった一人の事務員がコーヒーを淹れている背後で、必要のない書類を引っ張り出して、あたかも大事な業務中ですとアピールする姿。滑稽だ。でも、これをやめると「何もしていない自分」が浮き彫りになるようで、なんだか怖いのだ。

事務所の空気は一人芝居でできている

この事務所で一番よくしゃべっているのは、実は自分かもしれない。電話口の相手がいなくなった後も、「ふぅ、やれやれ」と声を出してため息をついてみたり。事務員が席を外したタイミングで独り言が増えるのは、まるで自分に「忙しくしてるぞ」と再確認しているかのよう。役者気取りのこの一人芝居に、もう誰も付き合ってくれるわけじゃないとわかっていても、やめられない。

事務員の視線を意識してしまう小心さ

自分で雇っているはずの事務員の視線に、なぜかびくびくしている。「あの人、今日はのんびりしてるな」と思われたくないのか、つい忙しそうな顔をしてしまう。事務員がコピー機の前で立っているだけで、なぜか背筋が伸びる。自意識過剰だと自分でも笑ってしまうが、これが現実だ。独身の男が、人生の中で唯一「見られてるかもしれない相手」として、事務員を勝手に意識しているだけなのかもしれない。

「先生って大変ですね」と言われたいだけ

忙しいふりをしているのは、結局誰かに「頑張ってますね」と言われたいだけなんだと最近気づいた。親からも、友達からも、もちろん女性からも、そんな言葉をもらう機会はもうほとんどない。でも事務員が時折見せる「先生って、やっぱり大変ですよね」という一言が、心のどこかに効いてしまう。自分でも浅ましいと思う。でも、それが人間というものだ。優しさに飢えているのかもしれない。

本当はちょっと暇だった午後三時

時計の針が午後三時を指す頃、やることが一段落して、あとは郵便が来るのを待つだけ。そんな時間に限って、書類を見返してみたり、意味もなくデスクの配置を変えてみたりする。心のどこかで「仕事の山を乗り越えた自分」を演出したくなる。でも実際は、昼ごはんを食べ過ぎて少し眠いだけだったりする。誰にも見られていないのに、自分に対して芝居をしている午後の静寂が、少しだけ切ない。

他人よりも自分に対しての演技がつらい

一番しんどいのは、他人ではなく自分自身に「嘘」をつき続けていることかもしれない。「俺は頑張っている」と自分に言い聞かせるために、あえて余裕のなさを演出している。仕事に誇りはある。けれど、たまには「何もない午後」にちゃんと向き合って、自分の心と会話する時間があってもいいはずだ。

元野球部の性分で、つい空元気が出てしまう

高校時代、炎天下のグラウンドで「疲れた」と言うのは甘えだった。怒鳴られても、黙って走って、声だけは出していた。そんな“空元気文化”が骨の髄まで染み込んでいるから、今でも疲れていないのに「ふぅ」と息をついてしまう。机の前で書類整理しているだけなのに、脳内では「全力プレー中」のBGMが流れている気分。誰も見てないのに、全力でやってます感を出す。滑稽だけど、これが自分なのだ。

「何かやってますアピール」の正体

パソコンの前で深刻な顔をしているのに、実は請求書のテンプレをいじってるだけ。電話口で「そうですねぇ、今はちょっと立て込んでまして」と言いながら、実際には週末の献立を考えてる。そういう場面、たくさんある。何かしてる風の演技に慣れすぎて、本当に大切な時間を見失ってしまいそうになる。この「やってますアピール」、いったい誰のためなんだろう。

忙しくしてないとダメな人間だと思っていた

ぼーっとしてる時間を否定してきたのは、たぶん自分自身だ。「働いてない=ダメ」という思考に支配されている限り、永遠に“忙しいふり”を続けることになる。本当は、一息ついた時間にこそ、新しいアイデアが生まれたり、心が整ったりするのに。それに気づいた今も、まだ完全には抜け出せない。でも、気づけただけでも少し進歩したのかもしれない。

忙しいふりをやめるのは難しいけど

癖になってしまった忙しそうな演技は、そう簡単には抜けない。だけど、ふとした瞬間に「もうやめてもいいかもしれない」と思えることがある。自分を演じるよりも、自分を労わることが大事だと、ようやくわかってきた気がする。完璧じゃなくても、無理しなくてもいいのだ。

一人の時間とちゃんと向き合う覚悟

事務所の静けさを怖がるのではなく、受け入れる。机に向かって、静かにお茶を飲みながら「今日は何もしなかったな」と笑って言えるようになれたら、それはきっと強さだ。孤独を演出で埋めるのではなく、そのままの自分でいられる時間を、少しずつ増やしていきたい。

勇気を出して暇な時間を認める

暇であることは、悪ではない。仕事の山を乗り越えた先にある「暇」は、ご褒美なのかもしれない。何もしない時間を持つことが、次の一歩を軽くする。周りにどう思われるかではなく、自分がどう過ごしたいかを大事にしたい。暇を怖れず、むしろ楽しめるようになれたら、少しだけ生きやすくなる気がする。

モテない男の虚勢を少しだけ脱ぐ瞬間

正直、誰かに「頑張ってるね」と言われたい。認められたい。でもそれは、虚勢を張って無理に忙しくして得られるものではない。静かな午後、誰に見せるでもない素の自分を肯定できたとき、ちょっとだけ心が軽くなった。そんな小さな変化の積み重ねが、次の自分をつくっていくのだと信じてみたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。