泣かせるつもりなんて一度もないのに
相続の相談に乗ると、時々ではなく、けっこうな頻度で泣かれてしまう。こちらとしては冷静に、法的な手続きを丁寧に説明しているだけのつもりなのに、気づけば目元をぬぐう依頼人。その瞬間、空気が変わる。ああ、またか…と思いながらも、毎回こちらの胸にも何かが残る。慣れたようで慣れない、そんな場面の連続だ。
誰かの死を現実にする役割
司法書士として「相続の登記をしましょう」と話すことは、依頼人にとって「大切な人が本当に亡くなった」という事実を突きつける瞬間になる。書類の名前や印鑑、被相続人の本籍地など、冷静なやり取りの中に感情の地雷が点在している。こちらがどんなに事務的に振る舞っても、相手の心には波が立つ。
感情の蓋が外れる瞬間に立ち会う
ときには、まるで堰を切ったように、ぽつりぽつりと故人との思い出が語られ出す。「こんな人だったんです」「最後はあっという間で…」そう話す姿は、こちらが何を言える立場でもないくらいに崩れていく。ふだんはしっかりした人でも、感情の蓋が開いた瞬間にはもう、誰にも止められない。
涙の奥にあるそれぞれの事情
泣く理由は人それぞれだ。悲しみだけではなく、後悔や怒り、安堵や孤独。長年介護してきた方もいれば、疎遠だった家族をめぐる複雑な心情もある。こちらが法律の話をしている最中に、ふと「そういえばあの人…」と回想が始まってしまうと、話は法律ではなく人生そのものになる。
言葉を選んでも涙は止まらない
「お気持ちはお察しします」「ゆっくり進めていきましょう」そんなふうに気を遣った言葉を選んでも、涙を完全に防ぐことはできない。言い回しを変えても、避けられない話題に入れば、結局は同じ反応になる。こちらも人間だから、心が痛む。でも、仕事は進めなくてはならない。
冷静な説明が時に冷たく映る
「この方が亡くなられてから〇ヶ月経っていますね」…この一言が地雷だったこともある。日付や期限を淡々と説明したつもりが、「そんなふうに言わないでください」と叱られた。こちらは義務を果たそうとしているだけでも、相手にとっては感情をえぐる刃になってしまうことがある。
説明の正確さとやさしさのジレンマ
正確さを追求するほど、温かみは失われてしまう気がする。「〇日以内に」「義務です」「法的には」…そういった表現を使うたびに、相手の表情が曇るのが分かる。逆に、やさしさを優先しすぎると、誤解を生んでしまう。このバランス感覚は、毎回神経をすり減らす。
たどり着けない中庸の言葉選び
毎回ベストな言い回しを探すが、正解にはなかなか辿り着かない。どこかで誰かを傷つけてしまったのでは、とあとで自己嫌悪する日もある。説明の言葉を反芻し、あの一言は余計だったかもしれないと、寝る前に思い返す。相続登記の知識よりも、心理カウンセラーのスキルが必要なのではと思うこともある。
泣かれた後の空気をどう整えるか
涙がこぼれた瞬間、空気は重くなる。焦って話を変えようとしても逆効果だし、無理に続ければ冷たい印象を与える。そんなとき、一番効果的なのは、こちらが焦らずにただその時間を受け入れることだった。沈黙に耐えられるかどうか、それが試される。
ティッシュよりも必要なのは沈黙の耐性
事務所にはティッシュを常備している。けれど、それより必要なのは「黙って待つ力」だった。相手が泣き止むまで、こちらが口をはさまない覚悟が要る。気まずくならないように、黙って視線を外しながら静かに時間が流れるのを待つ。それだけで、相手は少しだけ落ち着く。
時間を取るかテンポを守るかのせめぎ合い
限られた相談時間の中で、泣く時間にどこまで付き合うか。それも悩ましい。予定が詰まっている日だと「そろそろ本題に…」と思ってしまう自分がいる。でも、そんな自分の都合で人の涙に線引きしていいのか。時間と感情のはざまで、何度も葛藤する。
事務員さんのナイスフォローに救われる
そんな場面で、うちの事務員さんが絶妙なタイミングでお茶を出してくれたり、そっと声をかけてくれると、本当に助かる。無言でティッシュを差し出すその動きが、どれだけ場を救ってくれるか。やさしさというのは、こういう静かなフォローに宿るのだと思う。
黙ってお茶を出してくれるだけで神
こちらが「どうしよう」と頭を巡らせている間に、事務員さんがお茶を出してくれる。これだけで場が和らぐ。声をかけずとも「今は少し休みましょう」という空気が伝わる。まさに神タイミング。こんな瞬間に、事務所は一人じゃ回らないと実感する。
涙に動じない落ち着きがありがたい
経験を積んだ事務員さんは、泣かれる場面にも動じない。静かに見守り、必要なときにだけそっとサポート。こちらが焦ってしまう場面でも、落ち着いた所作に引っ張られて冷静さを取り戻せる。こういう支えがあるから、なんとかやっていけている。
泣かれ慣れていく自分に少し戸惑う
何度も経験するうちに、泣かれることにも慣れてしまった気がする。「またか」と思ってしまう自分に、少しだけ嫌悪感を覚える。慣れるというのは、必要なことなのかもしれない。でも、人の涙に慣れていいのか。そんなふうに悩む夜もある。
最初は焦ってたのに今じゃ手慣れた対応
新人の頃は、泣かれたらどうしていいか分からずパニックになっていた。でも今では「来たか」と構える余裕がある。慣れたことは悪いことじゃない。でも、どこかで人間味が擦り減っていないか、時々怖くなる。
プロとしての割り切りと人としての葛藤
プロとして割り切っていく姿勢と、人としての揺らぎ。その間を行ったり来たりしながら、自分のスタンスを模索している。泣かれがちでも、ちゃんと向き合うこと。それだけは、今も変えたくない。