やることがあるからと言い訳して立ち止まった日
やることに追われる毎日で感じる空虚さ
「今日も忙しかったなぁ」と独り言をこぼしながら事務所のカーテンを閉める。パソコンはまだ電源が入ったまま、書類は山積み。やることは尽きない。でも、そのくせ心の中はぽっかり空いている感じがする。忙しくしていることで安心しているのか、それとも何かをごまかしているのか。ふと、誰にも聞かれていないのに、「やることがあるから」と口にしている自分に気づいた日、あれは何かが壊れ始めた合図だったのかもしれない。
忙しさで心を麻痺させていたことに気づく瞬間
書類の締切、登記の相談、電話対応…確かにやることはある。でも、それは本当に“やりたいこと”だっただろうか?ある日、昔の同級生から久しぶりに連絡が来た。「今度、釣りでも行こうよ」と言われて、「いや、仕事が立て込んでて」と断った。電話を切ったあと、何とも言えない寂しさが込み上げてきた。そう、やることがあると断るのは簡単だけど、それで失ってるものの方が多い気がしてならなかった。
書類の山が心の隙間を埋めてくれるわけじゃない
忙しくしていることで心が満たされるなら、毎日がもっと充実しているはずだ。でも実際は、書類をめくる手が止まると一気に虚しさが押し寄せる。特に夜、誰もいない事務所で一人、プリンターの音だけが響いていると、「俺、何やってんだろうな」とつぶやいてしまう。仕事は確かに生活を支えてくれる。でも、心の空白までは埋めてくれない。何かを“している”という事実が、必ずしも“生きている”という実感に繋がるわけではないのだ。
無意識のうちに選んでいた“安全地帯”
「やることがある」は、言い訳にしては優秀すぎる。断る理由にも、感情を遮断する壁にもなる。でもそれは、自分の本音や弱さに向き合わずに済む“安全地帯”でもある。誰にも責められないし、自分ですら納得できる。だからこそ、そこから抜け出すのが難しい。あのとき、釣りに行っていれば何かが変わっていたかもしれない。そう思うたびに、忙しさの中に逃げ込んだ自分の弱さが、少しずつ浮き彫りになってくる。
「やることがある」は本音から逃げるための盾
「やることがあるから」と言えば、たいていのことは断れる。人付き合いも、家族との時間も、自分と向き合う時間すらも。でも、それを繰り返しているうちに、自分が何を大切にしていたのかすら忘れてしまう。仕事が忙しいのは事実。でも、その“事実”の裏に隠された“本音”から目をそらしていた。僕は仕事が好きだったのか、それとも、他のことに向き合うのが怖かっただけなのか。その問いに正直に答えられないまま、時間だけが過ぎていった。
なぜ“今やるべきこと”ばかりを優先してしまうのか
目の前のタスクをこなすことは気が楽だ。考えなくても済む。今日も登記申請のチェックリストを埋めていれば、「ちゃんと働いてる」と思える。でも、その裏で、数ヶ月前から止まっている私生活のこと、年賀状をくれた友人に返事を書いていないこと、どれも「後でやろう」と放置してきた。“今やるべきこと”を優先することで、“本当にやりたいこと”を後回しにしていたのかもしれない。それが、人生の歪みを生んでいるのだと気づくまでには、ずいぶん時間がかかった。
考える時間が怖くて動いてしまう癖
手を止めると、つい考えてしまう。そして、その考えることが怖い。だからまた予定を詰め込む。Googleカレンダーは予定で真っ黒、でも本当は、ただ“考えないようにするため”に埋めているだけなのかもしれない。ふと空いた時間に「このままでいいのかな」と思った瞬間、すぐに書類を手に取る自分がいる。これはもう癖だ。行動することで安心を得ている。でも、その行動が本当に自分の人生に必要かどうか、立ち止まらなければわからない。
一度立ち止まる勇気の難しさ
立ち止まることは簡単に見えて、実はとても怖い。何もしていない自分に価値がないと感じてしまうからだ。だから、どんなに疲れていても仕事を詰め込んでしまう。でも、本当に必要なのは、少しの余白と静かな時間なのかもしれない。ある日、事務所を1時間早く閉めて公園を歩いてみた。何も生産していないのに、不思議と涙が出そうになった。それは、ようやく“今の自分”と向き合えた瞬間だったのかもしれない。
本当に自分が望んでいたことは何だったのか
司法書士になった日のことを思い出す。あのときは、「人の役に立ちたい」と思っていた。困っている人の力になれる仕事に憧れた。でも今は、期限に追われて処理するだけの日々。原点にあったはずの想いが、いつの間にか仕事の流れに押し流されていた。やることがあるのはありがたい。でも、その「やること」に自分の想いが込められていないなら、意味がないんじゃないか。そんなふうに、ようやく考えるようになった。
野球部だったあの頃の自分をふと思い出す
中学・高校と野球に明け暮れていた頃、練習は確かにきつかった。でも、打席に立つときの緊張感や、仲間と喜びを分かち合ったあの感覚は、今でも鮮明に覚えている。そこには明確な「目的」と「想い」があった。今、自分が日々こなしている業務に、それはあるだろうか?いつからだろう、効率ばかりを追いかけて「想い」を置いてきてしまったのは。野球部の自分が今の自分を見たら、どう思うだろうか。
資格を取ったあの日に描いていた理想とのズレ
司法書士の合格通知を受け取ったあの日、僕は少し泣いた。嬉しかったし、ようやくスタートラインに立てたと思った。地域に根ざして、信頼される仕事をしようと決意した。なのに今は、「早く処理して、今日も終わった」としか思えない日が続いている。あのときの自分に「今の働き方は理想か?」と問われたら、素直に頷けない。忙しさの中で、理想との距離が広がっていったことを、やっと認める覚悟ができた気がする。
理想と現実の隙間で見えなくなっていたもの
理想と現実。その間には確かにギャップがある。でも、その隙間にあるものを見ないようにしていたのは自分だ。忙しさで目を逸らし、やることの多さを盾にして、本当の課題に向き合ってこなかった。「あのときの想いは、どこに置いてきたんだろう」――それが最近の口癖になっている。でも、思い出せるなら、取り戻せる気もする。そう思えた瞬間、やることリストの中に、自分の人生が少しだけ戻ってきた気がした。
忙しさの中にも意志を取り戻すために
「やることがある」は逃げ道にならない。でも、それを言い訳にしていた日々も、自分の一部だったと認めたい。これからは、やるべきことの中に、やりたいことを少しずつ混ぜていこうと思う。完全に理想通りの生活は無理かもしれないけれど、「やらされてる」ではなく「自分で選んでる」と思える瞬間を少しでも増やしたい。そう思った朝、事務所のカレンダーに“何もしない日”と書き込んでみた。
言い訳を手放すための小さな習慣
大きな変化は必要ない。まずは、「今日はやることがあるから」と断る前に、本当にそうか自分に問い直してみる。5分でもいいから、散歩に出る。夜寝る前に、意図的にスマホを見ない時間を作る。たったそれだけでも、心の中のノイズが少しずつ減っていく。忙しさに逃げず、ほんの少し立ち止まる。それを習慣にできれば、「やること」に追われる人生から、自分の意思で選ぶ人生に近づける気がしている。
「今日は少しだけ考えてみる日」と決めてみた
最近、自分にルールを課すのをやめた。代わりに、「今日は少しだけ考えてみる日」と決めるようにした。事務所でコーヒーを飲みながら10分だけ、ノートに気持ちを書く。ただのメモでもいい。やることが終わらなくても、それを悪いと思わない。その日一日がちゃんと“自分の一部”になった感覚が残る。誰かに見せるわけでもなく、役に立つわけでもないけれど、こういう時間が、結局は生きることそのものなんだと思えてきた。
やることがあっても、やらなくていい日も必要
「やること」は毎日ある。でも、全部今日やらなくてもいい。明日に回しても大丈夫なこともある。むしろ、“やらないことを選ぶ勇気”が、本当の意味での自由なのかもしれない。週に一度でもいい、「何もしない日」を自分に許す。その余白の中に、ようやく自分の本音が浮かんでくるから。逃げていたのではなく、ちゃんと向き合う準備をしていたと思える日が来ると信じて、今日も一つだけ「やらないこと」を選んでみようと思う。