ふと頭をよぎる向いてないの一言
司法書士という仕事に就いて何年も経ちますが、それでも「俺ってこの仕事向いてないんじゃないか」と思う瞬間が定期的にやってきます。書類に囲まれ、電話の鳴り止まぬ事務所の中で、自分だけが取り残されているような感覚。こうした気持ちは、一日の終わりにふと湧き上がってくるもので、疲れ切った身体と心には重くのしかかります。かつての野球部時代、ベンチで「なんで俺がここに?」と思ったあの瞬間に似ています。頑張っても報われない、そんな思いが頭を支配してしまうのです。
忙しさに埋もれて自分を見失う瞬間
朝から晩まで、ひたすらに業務をこなしていると、「何のためにやってるんだっけ?」という疑問が湧いてきます。特に月末や相続登記が重なる時期は、目の前の山積みの案件に追われて、ひとつひとつの仕事の意味や価値を見失いがちです。「先生、急ぎのFAX来てます」と事務員に言われるたび、呼吸を忘れるような感覚になります。心を込める余裕もないまま、ただただ終わらせる作業になってしまっていると感じると、モヤモヤが募っていきます。
やるべきことに追われて気づかない感情
業務に追われていると、感情を感じる暇さえなくなります。喜びも、達成感も、失望も、ぜんぶ後回し。自分の感情を置き去りにして、ひたすらに業務を終わらせていく日々。ある日ふと鏡を見たとき、そこにいたのは、疲れ切った顔をした自分でした。「なんか、俺、つまんない顔してるな…」と思った瞬間、ハッとしました。感情を感じないことで、自分を守っているつもりが、逆に自分を見失っていたのです。
終わらない登記と終わらせたい気持ち
登記は終わっても、業務は終わりません。書類を提出すれば、また次の案件。まるで終わりのないマラソンを走っているような感覚です。たまに、「全部やめたら、どんなに楽になるだろう」と思うことすらあります。でも、そんなときに限って、依頼人から「助かりました」「本当にありがとうございます」という言葉が届いたりするんです。皮肉にも、その言葉でまた踏ん張ってしまう自分がいる。まるで依存してるようで、それもまた自分に対する嫌悪感のもとになることもあります。
事務員の何気ない一言が突き刺さる日
うちの事務員は、優秀です。でもそのぶん、彼女の言葉が自分を刺すこともあります。「これ、前回と同じミスですよ」とか、「また後回しになってますね」とか。本人に悪気はないとわかっていても、疲れているときには、その一言がトドメになることもあります。自分の不甲斐なさを突きつけられるようで、黙り込んでしまう。たった一人の職場だからこそ、空気の重さも一気に変わってしまうのが辛いところです。
「先生大丈夫ですか?」に込められた不安
とある日、事務員がぽつりと「先生、大丈夫ですか?」と声をかけてきました。その言葉の裏には、心配もあったでしょうし、迷惑という感情もあったと思います。彼女にとっても、頼りにしているはずの上司が、明らかに元気がなかったら不安になりますよね。でもその一言が、自分を「頼られる存在」から「心配される存在」に変えてしまったようで、情けなくて仕方ありませんでした。
自分よりも冷静な事務員に焦る気持ち
現場で一緒に働いていると、事務員のほうが冷静に判断している場面が多くあります。こちらが焦ってバタバタしているときも、事務員はスケジュールを整え、優先順位をつけ、段取りよく動いている。自分が「指示する側」ではなく「される側」になっているような気持ちになる瞬間もあります。そのたびに、「俺って、向いてないんじゃ…」と自己否定が頭をもたげてくるのです。
他人と比べて苦しくなる自分
昔の同級生や、同じ資格を取った同期の活躍が目に入ると、どうしても比べてしまいます。特にSNSなんかで見る「〇〇件達成」「顧客満足度100%」のような投稿。そんな数字の裏にある努力や苦労は理解しているつもりですが、それでも自分の仕事と比較してしまうのが人間です。うまくいっているように見える他人と、自分の小さな事務所とを比べては、「この程度の自分でいいのか」と落ち込むのです。
SNSで見る華やかな同業者の投稿
司法書士という職業でも、SNSを使ってブランディングをしている人が増えてきました。華やかなスーツ姿、立派なオフィス、おしゃれなカフェでの仕事風景…。それを見るたびに、「自分、なんでこんな暗い事務所で、ファミマの弁当食べながら仕事してるんだろ」と思ってしまう。もちろん見栄もあるでしょうが、羨ましいという気持ちは否定できません。
仕事の成果を自慢できない日常
目に見える「成果」が少ないのも、この仕事の特徴かもしれません。登記が終わっても、「登記完了証」はあっても拍手はありません。依頼人の「ありがとう」があれば御の字。でも、それも短く、あっさりしたものです。日常は、地味で静かで、誰かに見せびらかせるようなものではありません。だからこそ、他人の華やかさが余計にまぶしく見えて、自分を小さく感じてしまうのです。
誰かの「順調です」に沈黙する自分
たまに開かれる士業の集まり。名刺交換の場で「順調ですか?」と聞かれ、「まあまあですね」と答えるのが精一杯。相手が「いやあ、うちは今期かなり好調で」と続けるのを聞くたびに、口元だけ笑って、心の中では「そんなにうまくいくもんなのか…」と拗ねてしまう。劣等感って、こういう場面で育っていくんだと思います。
それでもこの仕事を選んだ理由を思い出す
向いてないと思う日があっても、それでもこの仕事を続けている理由があるはずです。お金のためだけじゃない、人の役に立つ喜び、感謝の言葉、そして何よりも「自分にできた」という実感。思い出してみると、最初に登記が完了したときのことが、今でも鮮明に記憶に残っています。あのときの自分は、きっと「向いてるかどうか」なんて考えもしてなかった。ただ、「やれた」という事実がうれしかったんです。
最初に登記が完了した日の達成感
新人時代、右も左も分からず手探りだった頃。ようやく一件目の登記が無事完了したとき、窓口の担当者に「問題ありません」と言われた瞬間、心の底からホッとしたのを覚えています。あのときの達成感と安堵感が、いまでも心の支えになっています。向いてるかどうかなんて、そのときの自分には関係なかった。ただ、やり遂げたことで「やっていける」と思えたんです。
ありがとうの一言が心に残っている
この仕事をしていて、たまに依頼人からもらう「ありがとう」の一言。その一言が、本当に沁みます。特に、高齢の方からの感謝は重みがある。「これで安心して眠れるよ」と言われたとき、こちらの疲れが少し和らいだ気がしました。口数の少ない依頼人が、最後に小さな声で「助かりました」とつぶやいて帰っていく姿に、胸がじんとしたこともあります。
人の人生に関われる喜びはやっぱり特別
登記や相続、遺言の手続きなど、司法書士の仕事は人の人生の節目に関わることが多いです。重たい局面もあるけれど、それだけに責任と意味がある。自分が関わることで、誰かが一歩前に進める。そんな場面に立ち会えることの尊さを、もっと誇ってもいいのかもしれません。表には出ないけれど、確かに誰かの人生の一部になれている。それがこの仕事の本質だと、時々思い出すことが必要なんだと思います。
向いてないと思ったときこそ立ち止まる
「向いてないかも」と思ったときは、自分を責めるよりも、まず立ち止まっていいんだと思います。焦って進んでも空回りするだけ。疲れてるなら休めばいいし、モヤモヤしてるなら紙に書き出してみればいい。何かしら、自分の内側と向き合う時間を作ってあげることが大切。かつて野球部でスランプだったとき、監督に言われた「走り続けなくてもいい」の言葉が今でも身に染みています。
向いてるかではなく続けられるか
この仕事が「向いてるかどうか」なんて、正直よくわかりません。でも、「続けられるかどうか」なら、自分で判断できます。向いていなくても続けられる人もいれば、向いていても辞めていく人もいる。どちらが正しいとかじゃなく、自分が「やるか、やめるか」それだけ。だからこそ、続けている自分を、少しだけでも認めてあげてもいいのかもしれません。
愚痴をこぼせる誰かがいればいい
ひとりで事務所を運営していると、どうしても愚痴のはけ口がなくなります。だからこそ、愚痴をこぼせる相手の存在は大事です。同業の知人でも、古くからの友人でも、時には親でも。誰かに「もう嫌になっちゃうよ」と言えるだけで、ちょっと楽になります。吐き出せないまま溜め込むと、向いてないと感じる気持ちがどんどん膨らんでしまう。それが一番危険です。
野球部のベンチで泣いた夜もあった
高校時代、野球部の試合でミスをしてベンチに下がった夜、一人で泣いたことがありました。そのときは「もう野球やめよう」とまで思いました。でも、翌朝、ユニフォームを着て練習に出ている自分がいた。そのときと同じです。今も、嫌になっても、次の日には事務所を開けてる。そんな自分を責めるんじゃなくて、よくやってるよな、って言ってやりたい。少なくとも、俺は、俺の味方でいたいと思います。