紹介されたはずなのに誰にも呼ばれない

紹介されたはずなのに誰にも呼ばれない

紹介されたって言葉を信じたあの日

「知り合いに紹介しておくよ」。その一言にどれだけの希望を持ったか、他人にはわからないだろう。地方で司法書士をやっていると、人とのつながりが仕事の生死を分ける。だからこそ、その“紹介”という言葉に、つい期待してしまうのだ。でも、あのときの紹介話は、待てど暮らせど音沙汰なし。心のどこかで「まぁそんなもんか」と思いながらも、紹介されたはずの先から一度も連絡が来ないことに、やるせなさと居たたまれなさを感じたのを覚えている。

あの紹介しとくよは社交辞令だったのか

紹介というのは、相手が実際に行動して初めて意味がある。だけど、思えばあのときの「紹介しとくよ」は、飲みの席での軽いノリだった。相手は悪気なく、ただ場を繋ぐ言葉として口にしたのかもしれない。だけど、こっちはその言葉を真に受けて名刺を用意し、スマホの着信に敏感になっていた。元野球部でいうなら、代打で呼ばれると思って準備してたのに、最後まで声がかからなかった試合みたいなものだ。ベンチで静かに終わりの合図を聞くのは、意外と堪える。

本気で信じてしまった自分が恥ずかしい

今思えば、「紹介しとく」という言葉にそこまで期待するほうが間違っていたのかもしれない。でも、そのときの自分は、仕事が減っていたタイミングで、ほんのわずかな光にすがりたかっただけなのだ。紹介という言葉に希望を乗せるのは、別に悪いことじゃない。ただ、それを信じすぎてしまった結果、空振り三振のような気持ちになってしまった。冷静に考えれば、紹介者に悪気はないのに、勝手に失望して、勝手に落ち込んでいた。自分の弱さと向き合うのは、こういうときだ。

期待するとどうしてこんなにも疲れるのか

紹介を待つことに疲れを感じるのは、「期待」と「現実」のギャップが大きすぎるからだ。いつ来るかわからない連絡を待つ日々は、常にスタンバイ状態。電話の着信音にいちいち反応し、メールを何度も確認し、でも何も起こらない。まるで試合でずっとネクストバッターズサークルに立たされてるみたいな気分だ。準備だけはしてるのに、出番は永遠に回ってこない。その虚無感が、心をじわじわと疲弊させていく。期待しなければいいと頭でわかっていても、それができれば苦労はしない。

紹介される側にも覚悟が必要だったのか

紹介というのは、単なる「繋がり」ではなく、「信頼のバトン」でもある。そのバトンを受け取るためには、こちらにもある程度の覚悟が必要なのだと思い知った。紹介されたからといって、自動的に仕事が来るわけじゃない。むしろ、そこからがスタート。紹介者の顔を潰さないように、いつも以上に気を張るし、先方にとって「紹介してよかった」と思ってもらう必要がある。紹介はゴールじゃなく、むしろプレッシャーが始まる合図だったのかもしれない。

頼んだわけでもないのに期待してしまう

紹介の話って、こっちからお願いしたわけじゃなくても、相手が言い出した時点でどうしても期待してしまう。「紹介しておくよ」と言われた瞬間、脳内では未来の仕事や人間関係が膨らみはじめる。あの案件が来たら…と勝手に段取りを組んだりしてしまうのだ。でも現実は、それが実現しないケースの方が多い。自分の期待だけが先走って、あとから「そういえばあの話どうなったんだろう」と虚しく思い出す。頼んでないのに傷ついてる自分に、ちょっと笑ってしまう。

紹介=すぐ仕事につながるとは限らない

紹介という言葉の響きには、即効性のある“チャンス”のようなイメージがあるけれど、実際には紹介されても何も起きないこともある。先方がタイミングを見て連絡しようとしている場合もあれば、紹介者の熱意が伝わらずに埋もれてしまうこともある。つまり「紹介された」という事実だけでは仕事にならないのだ。これはまるで、ランナーが出たからといって必ず得点になるわけじゃないのと同じ。打席に立つまでに、思った以上の過程と運が必要だ。

紹介待ちの時間ほど不毛なものはない

紹介されるかもしれない、という期待に縛られてじっと待つ時間は本当に不毛だ。その間、自分から動くこともためらわれる。「もうすぐ連絡が来るかも」と思うと、他の仕事に集中できず、つい中途半端になる。でも結果的に何も起きなかったとき、失った時間とエネルギーの重さに気づく。紹介待ちというのは、一見前向きな姿勢に見えて、実は「動かない言い訳」になっている場合もある。待っているうちに、自分の価値が目減りしていくような感覚すらある。

それでも紹介に頼りたくなる日常

どんなに痛い目を見ても、また紹介話があると、どこかで期待してしまう。特に地方での司法書士業務は、口コミやつながりが仕事の生命線。広告費をかけずに信頼を得る手段として「紹介」はやはり強い。紹介を断ち切るなんてできない。だからこそ、「紹介されても仕事にならないこともある」と冷静に受け止められるようになることが、結局は精神衛生にも業務の安定にもつながるのかもしれない。

人脈がすべてじゃないと頭ではわかっていても

「人脈なんて関係ない」と強がる人もいるけど、実際の現場では、人のつながりがもたらす仕事の影響は無視できない。特に、顔の見える関係性が重視される司法書士の世界では、紹介は信頼の証でもある。ただ、そこに頼りすぎると、自分の実力や営業努力がなおざりになる危険もある。つまり、人脈は“調味料”であって“主菜”ではない。とはいえ、そう割り切るには、何度か痛い思いをする必要があるのかもしれない。

忙しいのに暇そうに見られる地方の司法書士

実際はバタバタしてるのに、「時間ありそうですよね」とか「紹介してもいいかなと思ってたけど、余裕なさそうで」と言われることがある。これは地味にショックだ。必死にこなしている仕事が、外からは見えていない。事務員と二人で回している現場では、一件一件の案件に時間がかかるし、雑務も山積み。でも“暇そう”という印象が先に立つと、紹介の話すら回ってこないこともある。仕事をしてるアピールって、実はけっこう大事なのかもしれない。

紹介が来る人と来ない人の違い

紹介が次々と舞い込む人と、こちらにはなかなか来ない人。正直、何が違うのか未だによくわからない。でも確実に差はある。話し方、見た目、立ち振る舞い、あるいは“なんとなく”の雰囲気。地道にコツコツやってるつもりでも、紹介されるのは華のあるタイプだったりする。だからといって今さらキャラを変えることもできないし、自分は自分のやり方でやるしかない。せめて紹介があった時に備えて、いつでも打席に立てるよう準備だけはしておこうと思う。

なぜかあの人には話が集まる不思議

同じような仕事をしているはずなのに、なぜかあの人には紹介話が次々舞い込む。こればかりは嫉妬を通り越して、もはや不思議の域だ。たしかに対応も丁寧だし、笑顔もさわやかだ。紹介者が「この人なら大丈夫」と安心できるような“何か”を持っているのだろう。それが自分に足りていないものなのか、それとも単に縁の問題なのか。地方という限られた人間関係の中では、こうした“ちょっとした差”が意外と大きな違いを生む。

性格のせいか運のせいかタイミングか

紹介が来ない理由を考えると、性格が暗いせいか、運が悪いのか、単にタイミングが悪いのか、と自分を責めたくなる。でも、たぶん全部なんだと思う。ちょっとしたすれ違いや一言の印象で、紹介されるかどうかが決まることもある。つまり、“自分をどう見せるか”の積み重ねが結果になる。とはいえ、そう簡単に性格は変えられないし、無理してキャラ作るのもしんどい。地味でも、自分の誠実さを信じてくれる人がいると信じるしかない。

紹介を待たずに動いた時の話

あるとき、紹介をあてにせず、自分から地元の士業交流会に参加した。人見知りの性格もあって、最初は冷や汗が止まらなかったけど、その場で知り合った若い税理士から、数ヶ月後に案件を紹介してもらえた。正直、紹介話を待っていた頃よりも、動いたときの方が結果につながることを実感した瞬間だった。毎回うまくいくわけではないけれど、“待ちぼうけ”よりはずっと前向きな疲れ方だった。

自分で仕事を取りに行ったときの心の重さ

紹介を待つより、自分から営業した方が早い——そうは思っていても、実際に行動するのは本当に勇気がいる。こちらから声をかけることで、「嫌がられたらどうしよう」とか「必死すぎてダサいと思われたら」とか、変なプライドが邪魔をする。でも、誰も呼んでくれないなら、自分で登場するしかない。司法書士の看板はあっても、自分で名乗らなければ、存在していないのと同じ。そう思ってからは、多少なりとも動けるようになった気がする。

断られる恐怖よりも動かない後悔の方がつらい

声をかけて断られるのは、たしかにきつい。でも、何もしないで待って、何も起きなかったときの後悔の方が、あとあとまで引きずる。これはまるで、バットを振って三振するより、見逃し三振で終わる方がモヤモヤするのと同じだ。振った結果なら諦めもつく。でも振らなかったら、自分を責めることになる。だから最近は、断られても「動けた自分」にだけは少しだけ満足している。紹介があってもなくても、結局は自分で動いたもん勝ちなのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。