玄関越しの『お疲れさま』が沁みた日 ― 司法書士という孤独な仕事に寄り添う声

玄関越しの『お疲れさま』が沁みた日 ― 司法書士という孤独な仕事に寄り添う声

今日はもう誰とも話したくなかった

朝からずっと、何かが噛み合わない一日だった。登記の補正依頼が立て続けに届き、役所には電話がつながらず、依頼人からの問い合わせにも余裕を持った返答ができない。そんな中、事務所の空気も重く、事務員さんにも余計な気を遣わせてしまっている。人と話すのが億劫になり、声を出さずに仕事だけを黙々とこなしていた。時計を見れば、もう夕方。今日も「ありがとう」も「頑張ってるね」もないまま一日が終わろうとしていた。

声を出さないまま終わる日がある

司法書士の仕事は、対人でありながら、孤独な業務の連続でもある。申請書類は山のようにあるが、誰かと向き合うわけではない。オンライン化が進み、窓口に出向く機会も減り、電話の声すら出さないまま夕方を迎える日もある。事務所の中で一人、ひたすら静かにパソコンと書類を相手に過ごしていると、ふと「今日、自分は誰かに存在を認識されたのだろうか」と感じてしまうことがある。

電話に出る気力すらない午後

午後3時を過ぎると、集中力も切れてくる。着信が鳴っても、少しの間、取る気になれない。無機質な依頼、淡々とした確認、怒り気味の問い合わせ……どれも受け止めるには心がすり減っていた。「またか」と思いながら受話器を取る。けれど、相手の言葉は仕事上のやりとりだけで、そこに感情のやりとりはない。こちらも最低限の対応にとどめ、通話を終える。その瞬間、自分の中から言葉が少しずつ失われていく気がした。

それでもハンコは押さないといけない

気持ちがどれだけ擦り減っても、登記は待ってくれない。ミスは許されない世界で、感情を殺して正確さだけを求められる。実印を押すときは、まるで無音の儀式のようだ。誰にも見られず、誰からも評価されず、ただただ職務として印鑑を押す。誤字脱字ひとつで何度も戻される世界で、黙々と責任を背負い込む。それが司法書士の日常だと、もう諦めている。

配達員の「お疲れさま」が刺さった瞬間

そんな重苦しい一日、夕方に荷物が届いた。Amazonでもなければ重要書類でもない、ただの文房具の小包。玄関を開けた瞬間、配達員さんが笑顔でこう言った。「お疲れさまです」。その一言が、なぜか胸にズシンと響いた。誰かがこちらの頑張りを感じ取ってくれた気がして、不意に目頭が熱くなった。冗談みたいだけれど、本当にそれだけで少し救われた気がした。

玄関のドア越しのその一言に、なぜか涙が出そうになった

配達員の方も、当然仕事中で忙しいはずだ。重い荷物を抱えて何件も回って、疲れているだろうに、それでも「お疲れさま」と言ってくれた。私はその日、自分以外の誰からも労われることがなかった。何も期待していなかったからこそ、その一言が心の奥に沁み込んだ。玄関のドアが閉まった後、しばらく立ち尽くしたまま、心の中で何度も繰り返した。「お疲れさまって、いい言葉だな」と。

荷物はただの封筒、でも心は届いた

封筒の中身は、事務用の消耗品。中身自体には感動も感謝もない。でも、その「届けてくれた人の声」が、今日は何よりの贈り物だった。普段は受け取っても「どうも」で済ませるところ、思わず深くお辞儀をしてしまった。人は、言葉に飢えることがある。気づけば、私は今日一日、自分に対しても「お疲れさま」と言っていなかったのだ。

「誰かに認められたかった」気持ちに気づいた日

司法書士という仕事は、正確であって当たり前。成果が出ても褒められることは少なく、ミスをすれば責められる。だからいつしか、誰かに「すごいですね」なんて言われることを望まなくなった。それでも、たった一言の「お疲れさま」が沁みたのは、どこかで認められたかった、報われたかった、そんな思いがくすぶっていた証だったのだと思う。

誰も見てない日々の労働

何百件と書類を処理しても、誰も拍手をしてくれない。依頼人との打ち合わせも、時には単なる手続きの確認でしかない。プロとして当然、そう思ってやってきたけれど、やはり人間は「誰かに見ていてほしい」という本能から逃れられないものだ。

登記の山、役所とのやりとり、報われなさの連続

「この人、本当に話聞いてくれてるのかな?」と感じるような依頼人も多い。こちらが説明しても、半分も伝わっていないこともある。役所とのやりとりも、こちらが気を回して整えた書類が、窓口でたった一言で「やり直し」とされる。心を削って準備したものほど、あっさり否定されると立ち直るのに時間がかかる。「一体誰のためにやってるんだろう?」と自問する夜がある。

「間違えられない仕事」が積み重ねるプレッシャー

司法書士の仕事は、基本的にミスが許されない。正確さが命であり、どんなに頑張っても「ミスさえなければ普通」としか評価されない。そんな仕事を毎日続けていると、次第に心が緊張で固まってしまう。余裕のない日々が当たり前になると、人の優しさにも鈍くなる。でも、だからこそたまに届く「お疲れさま」が、強く沁みるのだ。

感謝もされず、クレームだけが記憶に残る

業務を終えて思い出すのは、感謝の言葉よりも理不尽なクレームの方が多い。何十件の仕事をきっちりこなしても、たった一人の不満でその日が台無しになることもある。成果は見えにくく、評価されにくい。だから余計に、「ありがとう」とか「助かりました」という言葉が、まるで幻のように思えることがある。

自分をいたわれるのは自分しかいない

今日もがんばった、そう言えるのは自分自身だけかもしれない。誰かに言ってもらえる日もあれば、誰からも気づかれずに終わる日もある。でも、だからこそ、自分だけは自分に「よくやった」と言ってあげる必要がある。

「頑張ってる」と言ってあげられるのは自分しかいない

人からの言葉は嬉しい。でも、それだけを期待していたら心が持たない。だから私は、毎日の終わりに、自分の心の中で「今日もよくやった」と言うようにしている。誰にも届かなくても、自分の努力くらいは自分で認めてあげたい。そうしないと、明日もまた黙って机に向かうのがつらくなる。

労いの言葉を他人に求めるのはやめた

配達員の「お疲れさま」が沁みたのは、期待していなかったからかもしれない。期待しないでいた優しさは、時に驚くほど力を持つ。でも、それは偶然の贈り物だ。だから、私は他人に労いを求めるのはやめた。求めすぎると、足りないときに心が折れてしまう。自分のペースで、自分の声で、自分を労っていくしかない。

それでも、誰かの一言に救われることもある

人間だから、やっぱり弱る日もある。そんなときに、ふと誰かの言葉が心に沁みて、立ち上がるきっかけになる。司法書士として、日々を淡々と生きていく中でも、そんな小さな奇跡があることを、今日の私は忘れたくないと思った。明日もまた、静かな孤独を抱えながら、それでも私は仕事に向かうのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。