「印鑑証明をください」と言われてふと立ち止まる
日常の業務の中で、「印鑑証明を添付してくださいね」と依頼することは何気ない一コマだ。しかし、ふと我に返ると、その“証明”という言葉が胸に刺さる時がある。印鑑の正当性は証明できても、自分自身がこの社会においてどれほど必要とされているのか、それを証明する手段なんてあるのかと考えてしまう。特に疲れている日には、その疑問が妙にリアルに感じられて、心がざわつく。
その書類のために生きているわけじゃない
法務局へ、銀行へ、郵便局へ。朝から晩まで書類を書いて届ける。それが仕事だから文句は言えないけれど、気づけば“この書類のために今日も生きてる”ような気になってくる。依頼人にとっては大事な手続きだ。それはわかってる。でもふと、人生ってもっと他にあったんじゃないか…なんて思う日もある。正直、書類よりも自分の人生が空欄だらけなのが気になって仕方がない。
印鑑が押されていれば成立する世界の虚しさ
印鑑が押されていれば「正式なもの」とされる世界。それが法の世界であり、我々の現場だ。だが逆に言えば、どれだけ本音で話しても、印鑑がなければ“無効”になってしまうという事実。それってすごく冷たい世界だと思う。人の気持ちや人生の背景より、ハンコのほうが重たいなんて、どこか間違ってないかと感じてしまう。でも、それがルールなのだから…と諦める自分がまた、少し嫌になる。
じゃあ自分が押されたら何が残るのか
もし自分自身に印を押されたとして、それで「この人間はここに存在しました」と証明できるだろうか? いや、そんな証明を必要としてる時点で、もう結構ギリギリだと思う。それでも日々、目の前の依頼を処理しながら、どこかで“何か大事なもの”を探している。誰かに必要とされたい、認められたい、という気持ちが、こんな四十半ばの独身男の心にもまだくすぶっている。
司法書士という仕事が誰かを救っている実感は薄い
誰かの役に立っているという感覚は、なかなか実感しにくい。たとえば病院なら、目の前で命が助かる場面があるかもしれない。学校なら、生徒の成長を見守れるだろう。でも司法書士の仕事は、誰かの“裏方”のさらに裏。書類がスムーズに通ったときにこそ、こちらの存在は消える。完璧に仕事が終わった証こそ、誰にも気づかれないことだ。それは誇りにもなるが、孤独でもある。
感謝の言葉よりも先に来る「まだ?」の一言
正直、「ありがとうございます」よりも「まだですか?」のほうがよく聞く言葉だ。いや、依頼人にとっては当然のことだ。人生の節目に関わる手続きなのだから。でも、それが毎日続くと、なんだか自分が“ただの処理機械”になったような錯覚に陥る。誰のためにやってるんだっけ? 自分がどこにいるか、見失いそうになる瞬間がある。
誰にも評価されない日々をどう受け止めるか
「いい仕事してますね」と言われることは、ほとんどない。目立ってはいけない、失敗してはいけない、だから無事に終わって当たり前。そんな世界だ。でもだからこそ、自分の中で自分を評価する力が必要になる。他人に褒められないなら、自分で褒める。…と、言うのは簡単だけど、現実は難しい。特に夜、ひとりで食べるコンビニ弁当が冷えていると、余計に気持ちも冷えてくる。
事務所に一人いる事務員の存在が救いであるという現実
唯一の事務員さんの存在は、思っている以上に大きい。正直、精神的な支えと言っても過言ではない。業務的にも頼りにしているけれど、それ以上に「ひとりじゃない」と思えるだけで心が軽くなる日がある。たったそれだけのことで救われる自分が、ちょっと情けないけど、本当の話だ。
孤独と共に働くという感覚に慣れてしまった
気づけば、孤独と一緒に働くことが“通常”になっている。昔は人と話すのが好きだったはずなのに、今は必要最低限の会話しかしない日もある。音のない事務所でキーボードだけがカチャカチャ鳴る時間。たまに「このまま誰とも話さず1日が終わるな」と思うとき、無性に寂しくなる。そんなときに隣から「お疲れさまです」と声が聞こえると、不意に涙が出そうになる自分がいる。
「独身で良かったですね」と言われた夜の本音
たまに依頼人から「こういう仕事は独身のほうが向いてますよね」なんて言われることがある。たしかに、急な案件や深夜対応もあるこの仕事では、家族に気を遣わなくていいのは事実だ。でも、それが“良かった”かというと…複雑だ。帰る家に誰かがいてほしいときもあるし、くだらない話をして笑いたい夜もある。独身は自由かもしれないが、その分、すべてを一人で受け止める覚悟が必要だ。
家庭を持たないことの利便性と空虚さ
確かに、家庭がない分、仕事に集中できる。それは認める。でも、帰る場所に誰かが待っているあたたかさを知らないまま歳を重ねてしまったような気もする。便利さと引き換えに失ったものは、案外大きかったのかもしれない。ふとした瞬間に誰かの家族の話を聞くと、ほんの少しだけ胸が痛む。もう戻れない場所に立ってしまった気がして、言葉に詰まる。
元野球部でも打てない球がある
学生時代、野球部で鍛えた体力と根性は、たしかに社会に出てからも役に立ってきた。でも、人生には“どこに飛んでくるかわからない変化球”ばかりだ。理不尽なクレーム、想定外の登記ミス、行政の対応の遅れ……どんなに鍛えてきても、空振りしてしまう。昔のように全力でバットを振っても、当たらないときは当たらない。それでも立ち上がるしかない。
努力しても空振りする場面ばかり
この仕事に情熱を持って入ったはずだった。でも今は、何かを掴むどころか、ずっと空を切っている気がする。努力すれば報われる、なんて言葉は嘘だと思ったこともある。でも、努力しなければきっと何も起きない。だから結局、また今日も仕事をする。報われるかどうかはわからない。でも、やらなきゃ、誰かが困る。それだけが、今の自分を支える理由になっている。
結果が出ないときに何を支えにすればいいのか
目に見える成果がないとき、自分の存在意義をどこに求めるのか。それが本当に難しい。誰にも褒められず、称賛もされず、でも確実に“誰かの生活”を支えている。それって案外、すごいことなんじゃないか…と思える日が、たまにある。その“たまに”を信じて、今日もまた、印鑑証明の提出期限を確認している。