仮登記が消した涙
夏の盛り、午前10時の司法書士事務所には、うだるような暑さとは裏腹な冷気が漂っていた。エアコンの効きが良すぎるのか、それとも隣にいるサトウさんの視線が冷たすぎるのか。事務所のドアが開く音がして、男が一人、静かに入ってきた。
手にはファイル一つ。無表情でこちらを見つめるその目は、何かを訴えているようで、しかし感情の起伏は見えない。やれやれ、、、今日もまた、面倒そうな相談だ。
朝のコーヒーと仮登記
サトウさんの冷たい一言から始まる日
「所長、コーヒーです。あ、もう冷めてますけど」 朝からそんな調子で渡されるカップを受け取りつつ、僕は机に目をやった。書類の山。見慣れたはずなのに、今日はいつもより重く感じた。
「冷めてても、ありがたいよ……」 そう返すと、サトウさんは一言、「感謝は言葉じゃなくて、仕事で示してください」とだけ言って、パソコンに視線を戻した。まるで昭和の時代に取り残されたサザエさんの波平みたいだ。
依頼者は笑わない中年男性だった
男の名は石井といった。仮登記の抹消について相談があるという。 「母が亡くなりまして……相続登記の手続きを」 抑揚のない声に、こっちまで無表情になりそうだ。
だが、彼が差し出した通知書を見て、僕は眉をひそめた。仮登記の原因が、何とも奇妙だったのだ。旧住所の仮登記。その後、移転登記がされずに止まっている。
一枚の登記識別情報通知書
仮登記の記載に潜む不自然な空白
通知書には記載されるべき「権利者」の欄が、かすれたように印字されていなかった。プリンタの不具合かと思ったが、他の書類は正常だった。
「この通知書、どこで手に入れました?」 「母の仏壇の中です。誰にも見られたくなかったのでしょうか」 その言葉が、胸に引っかかった。
依頼人が見せた涙の理由
石井の目元が、ほんの少しだけ潤んだ気がした。 「母は、死ぬまで土地のことを誰にも言わなかったんです。父が出て行った後、ずっと一人で守っていた土地なんです」
その土地には、仮登記がされ、しかし本登記に至っていなかった。理由は、所有者の不在。つまり、父親の失踪。
シンドウの違和感
昔見た似たような登記と一致する記憶
あの仮登記、見覚えがあった。数年前、別件で調べていた廃屋の土地にそっくりの記録があった。しかも、同じ名義人。
「それ、もしかして港町のあの坂の上の家ですか?」とサトウさん。 驚いた。まさか、彼女が覚えているとは。あの案件、僕は途中で体調崩して休んでいたのに。
サザエさん的勘違いから導かれるヒント
「でも、その時は別の名字でしたよね?石井じゃなくて、山田……」 僕はうっかり「そうだっけ」と口を滑らせたが、サトウさんは冷静だった。 「所長、それ、同一人物の別名義では?」 やれやれ、、、またしても僕より先に気づかれてしまった。
やれやれ、、、とつぶやいて
元野球部の直感が炸裂する瞬間
記憶の糸を辿りながら、僕は思い出していた。坂の上の廃屋、手入れされていない庭、そしてポストに差し込まれていた古びたハガキ。
そのハガキの差出人こそが、石井の母だった。住所は今の通知書と一致していた。つまり——彼女は、あえて仮登記のままにしていたのだ。夫を探し続けるために。
サトウさんの見事な伏線回収
「仮登記の原因、未登記相続じゃなくて、生存を信じての猶予でしょうね」 彼女の言葉は、まるで探偵漫画のセリフのようだった。僕の頭には、ルパン三世の不二子が浮かんだ。クールで切れ者で、ちょっと意地悪な感じが、似ている。
最後に涙を流したのは誰か
仮登記の裏に仕組まれた本登記の罠
その土地には、既に第三者への売却手続きが進んでいた。仮登記のままであることを悪用された形だ。石井が手続きを進めていなければ、完全に奪われていただろう。
だが、母はそれでも仮登記を外そうとしなかった。「帰ってくる」と信じていたからだ。その強さが、逆に子を苦しめたのかもしれない。
悲しみを封じた登記簿と一通の手紙
登記簿の整理が終わった頃、石井が取り出した封筒があった。そこには、父宛の手紙が入っていた。日付は20年前。
「帰ってきてください。あなたの席はまだあります」 封は破られていなかった。石井は静かにその封筒をポケットにしまった。
次の依頼人がチャイムを鳴らす
事件は解決した。でも、心に残る何かは、そう簡単に片付かない。 チャイムが鳴る。また誰かが、何かを抱えてこのドアをくぐるのだろう。
僕はコーヒーを一口飲んだ。今度は、ちゃんと温かかった。