エアコンの停止音に胸がざわつく
一日の仕事がようやく終わって、事務所のエアコンを切ったとき、部屋に流れる静けさがやけに重たく感じる瞬間がある。ブォーンという低い運転音が止まっただけなのに、なぜか胸がきゅっとなる。空気が動かなくなると同時に、自分の心の内側までピタリと静まってしまうような感覚。忙しさの中では聞こえなかった音が、耳に入ってくるというより、むしろ“聞こえなさすぎて”不安になる。無音は落ち着きではなく、不意に押し寄せる寂しさとして襲ってくる。
仕事が終わったはずの部屋に残る重たさ
書類は片付いたし、デスクも整理された。でもそれなのに、何かが「終わっていない」ような気がして、体が帰ろうとしない。誰もいない事務所に、エアコンを切ったあとの生温かい空気だけが残っている。たぶんそれは「今日の仕事はこれで良かったのか」という自問自答が、部屋の空気の中に染みついているからなんだろう。確認しようのない感情に付き合わされるのは、ひとり仕事の宿命かもしれない。
騒音が恋しいときもある
以前、事務所の前の道路工事が一ヶ月近く続いたことがあった。あのときは「うるさいな」と思いながらも、今思えばあの騒音が人の気配を感じさせてくれていたのかもしれない。無音の部屋より、ちょっとくらいうるさい方が気が紛れる。今はただ、冷房の風すらないこの静寂に、自分の足音だけが反響している。たかが機械音、されど孤独を埋める一助だったのかもしれない。
無音の空間が心をさらけ出す
音が消えると、自然と考えごとが始まる。そして考えごとは、たいていネガティブな方向に転がっていく。今日はミスが多かったとか、対応が不十分だったんじゃないかとか。誰に責められたわけでもないのに、自己反省の声だけが大きくなる。無音というのは、外からの音がないというだけじゃなく、自分の心の声を直視させられるということなのかもしれない。
音に救われていたことに気づく瞬間
ふと、コンビニの冷蔵庫の「ウィーン」って音が恋しくなるときがある。あの一定のノイズが、どれだけ安心感を与えてくれていたか。自宅でもテレビをつけっぱなしにするのは、番組が面白いからじゃない。ただの音がほしい。静かすぎると、人ってこんなにも自分の中身と向き合わされてしまうのか。音がないだけで、こんなに寂しいとは思わなかった。
独りの時間が怖くなる夜がある
誰とも喋らずに終わる一日。独立して、好きなように働けるはずだったのに、夜になると心が空っぽだ。人間って、思ってるより会話が必要なんだなと、40代に入って実感している。若い頃は、静かで自由な時間に憧れたけれど、今はその静けさが拷問のように思える夜もある。静かすぎる部屋で、自分だけが生きているような錯覚に襲われる。
話し相手がいないという現実
「今日は暑いですね」みたいな当たり障りのない会話ですら、事務員が帰ってしまえばもう出番がない。お客さんとも業務連絡ばかりで、本音を話す機会なんてない。LINEも通知が鳴らない。元野球部のクセに、チームプレーじゃないと心が干上がるタイプだったのかもしれない。部活では誰かがそばにいた。今は…エアコンのリモコンしかない。
スマホを握りしめたまま寝落ちするまでの孤独
寝る直前、布団に入ってからSNSを意味もなくスクロールする。誰かの投稿にいいねを押したり、くだらないニュースを読んだり。でも本当は、誰かと一言でもいいから会話がしたい。深夜に友達に連絡を送るのも気が引けるし、マッチングアプリは性に合わない。結果、スマホを握ったまま気づいたら寝ていて、朝になって首が痛くなる。
既読スルーよりきつい「通知ゼロ」
誰かからの返事を待っているわけじゃない。ただ、通知がゼロってことが、何より自分の孤立を感じさせる。元カノの誕生日にだけ鳴るLINE通知をまだ消せないままなのも、それに近い感情だと思う。過去のつながりを手放す勇気がないくせに、今のつながりも築けていない。エアコンの風より冷たいのは、自分の人間関係かもしれない。
元野球部のくせに、意外と寂しがり屋
高校時代は、どんなに暑くても声を出して走っていた。今は、暑くても静かにパソコンを叩くだけ。身体が動かない分、心だけが空回りしている気がする。仲間と一緒に走ることが、あんなに安心感をくれていたなんて、あの頃は気づかなかった。今さら部活に戻るわけにもいかないけど、誰かと「よし、明日もがんばろう」と言い合える日常が、やっぱり恋しい。
忙しさの裏にある「終わらない感情」
日中は忙しい。登記もあるし相談もある。事務員からの質問にも答えなきゃいけないし、電話も絶えない。でも、その「忙しさ」って、夜の静けさの前ではまるで幻のように消えてしまう。仕事があることが救いだと思っていたのに、結局、心の深い部分までは埋められていなかったんじゃないかと、夜になるたびに気づかされる。
事務員の退勤後が一番しんどい
事務員が「お疲れ様です」と言って帰っていく17時半。それ以降の時間が、実は一番しんどい。事務所に残るのは自分だけ。話す相手もいないし、することもない。でも帰る気にもなれない。エアコンの風に頼りきっていたことを、切った瞬間に痛感する。機械にすら慰められていた自分を、ちょっと情けなく思う。
「今日も何とか終わった」だけでは済まない夜
無事に一日が終わった、それだけじゃダメな日がある。「で、俺は今日、誰かの役に立てたのか?」と、急に哲学じみた問いが頭をよぎる。こういう思考って、たぶん誰かと会話していれば回避できるものなんだろうな。独り言しかない夜には、どうしても心が深いところまで沈んでいく。
事務所に残る自分の気配
書類棚の隙間から、自分の影が映るのをふと見ると、なんだか幽霊みたいに感じることがある。自分自身がこの事務所にとりついてるような、そんな感覚。働いてるのか、取り憑かれてるのか、もうわからない。静かな部屋で自分の存在感だけが際立っているのは、ちょっと怖い。
やることは終わったはずなのに思考が止まらない
今日の分の業務は終わったはずなのに、脳内では「あの書類、もっと丁寧にできたかも」とか「明日の準備しておくべきか」みたいな思考がグルグル回り続ける。エアコンを切ると同時に、そういう“思考の残響”が一気に広がる。無音の中で考えすぎる自分に、少し嫌気がさす。
タスクより重たい「存在の孤独」
やるべき仕事よりも、自分という人間の存在そのものが重たいと思う夜がある。誰かに評価されたいわけじゃない。でも、誰にも見られていないと感じると、生きている意味すらわからなくなる。静かすぎる部屋は、そんなことまで考えさせてくるから、タチが悪い。