依頼人の優しさに救われた日

依頼人の優しさに救われた日

突然の差し入れに涙が出た

それは、なんでもないようなある平日の朝のことだった。前日からの登記案件が立て込んでいて、ほとんど寝ずに出勤した私は、まぶたも重く、気分も沈んだまま事務所に入った。そんな時だった。約束の時間ぴったりに現れた依頼人が、開口一番、「これ、先生に」とコンビニ袋を差し出した。中には温かい缶コーヒーと、サンドイッチが一つ。そんなに高価なものじゃない、でもその気持ちに、不意を突かれて涙が出そうになった。

コンビニ袋を差し出された朝

その依頼人とは、何度か顔を合わせていたが、特別に親しいわけでもなかった。ただ、書類のやり取りで少しやりとりがあった程度。なのに、私の顔を見た瞬間に、「あ、今日もしんどそうだな」と感じ取ったのだろうか。小さなビニール袋を渡しながら、「朝早くから大変ですね。これ、よかったら」と言ってくれた。その一言に、何かが緩んだ。誰かにいたわられたのが、久しぶりだった。

「先生、お疲れでしょうから」と渡された温かい缶コーヒー

手渡された缶コーヒーは、いつも自分が買う銘柄と同じだった。だからこそ、余計に胸に来たのかもしれない。「自分で選んだようなコーヒーを、他人が持ってきてくれる日が来るとは」。その感覚が新鮮で、不思議で、でもとてもありがたかった。しんどい朝の空気が、少しだけ温かくなった気がした。

誰にも頼まれてない優しさに崩れそうになった

忙しさの中で、無意識のうちに「人は冷たい」と決めつけていた自分がいた。でもこの時ばかりは、そんな偏見が一気に崩れた。人って、頼まれなくても優しくできるんだなと思った。自分も、そういう人でいたいと、缶コーヒーを握りしめながら思った。

心が荒んでいた時期だった

この出来事の少し前まで、私はひどく荒れていた。仕事がうまく回らず、依頼人とのやりとりもギスギスしがち。事務員の前でも、つい舌打ちをしたり、独り言で愚痴をこぼしたりしていた。そんな日々の中で、人の優しさに触れた瞬間は、まるで砂漠に水が落ちたような感覚だった。

登記が立て込んで睡眠不足の連続

特に繁忙期の登記業務は、体力的にも精神的にも限界を超える。登記情報提供サービスとにらめっこしながら、細かい確認作業の連続。疲れている時ほどミスも起きやすくなり、書き直しや印紙の貼り直しで時間が奪われる。そのストレスが蓄積されていた。

人の言葉が刺さるように感じていた日々

そんな時期は、たとえ何気ない一言でも、悪意に聞こえてしまう。「先生、それくらいお願いできますか?」という言葉に、「それくらいって何だよ」とイライラしたり。疲れていると、人の言葉すら凶器になる。だからこそ、思いやりの言葉が沁みた。

感謝されることに慣れてなかった自分

司法書士という職業は、基本的に「ありがとう」と言われる仕事ではない。むしろ、書類の不備を責められたり、行政とのやり取りの遅れを怒られたりすることの方が多い。それでも、どこか心の奥底で、「誰かの役に立っている」という実感を求めていたのだと思う。

「助かりました」の一言が沁みた理由

その依頼人は、書類を渡した際に「ほんとうに助かりました」と言ってくれた。その言葉があまりにも自然で、押しつけがましくなかったからこそ、心に響いた。こちらは淡々と、職務を果たしただけ。でも、その結果として感謝されることが、どれほど心に栄養をくれるか、痛感した瞬間だった。

こちらは淡々と仕事をこなしていただけ

特別な工夫をしたわけでもない。正確に、期日を守って、必要な登記書類を準備した。ただそれだけのことだ。でも、「それだけのこと」が、誰かにとっての大きな助けになる。それを改めて実感した。

誰かの人生の節目に関わっていたことを思い出す

登記って、結婚、離婚、相続、事業開始、あらゆる「節目」に関わってくる。そのたびに、自分は人の人生の小さな一部に立ち会っているのだと思い出した。責任の重さも感じるが、それと同時に誇りも少しだけ芽生える。

感謝のメールに思わず保存

後日、その依頼人から届いたメールには、あの時の感謝の言葉が丁寧に書かれていた。私は、そのメールを削除せず、思わずフォルダに保存した。「気が滅入ったときに見る用」として、こっそりラベルも付けた。

見返すたびに励みになる小さな文章

たった3行のメールなのに、見るたびに力が湧いてくる。「あの人のために頑張ってよかった」と、素直に思える文章だった。高価な報酬や評価よりも、人の言葉の方が長く心に残る。

モチベーションの綱はそこにあった

何度も辞めたいと思ったこの仕事を、続けてこられたのは、こういう小さな綱があったからかもしれない。誰にも見えないけど、自分の中で大きな支えになっていた。

事務員も涙ぐんでいた午後

その日の午後、依頼人が帰ったあと、事務所はいつになく静かだった。ふと見ると、事務員がじっとコーヒーの缶を見つめていた。「ああいう人ばっかりなら、私ももっと頑張れるのになあ」とポツリ。私も心の中で同じことを考えていた。

依頼人が帰った後の沈黙

その沈黙は、けっして重いものではなかった。むしろ、何か温かいもので満たされた空気。無言の中に、「今日は少し救われたな」という思いが流れていた。

「ああいう人ばかりだと良いんですけどね」

事務員のその一言に、思わず笑ってしまった。ほんと、それな。優しい依頼人に癒やされた午前中のことが、午後の業務の推進力になっていた。

珍しく事務員もやさしい表情だった

日頃は「これ間違ってますけど!」なんて厳しい事務員も、その日は少し穏やかだった。小さな優しさが、事務所全体の空気を変える。そんな日だった。

自分が求めていたのは評価じゃなかった

司法書士という仕事は、地味で、目立たず、間違えると怒られる。それでも、自分が求めていたのは拍手や報酬ではなく、「ありがとう」の一言だったのかもしれない。小さな出来事に救われて、自分を取り戻せた気がした。

それでも現実は厳しいけれど

次の日からも日常は続く。面倒な依頼も、理不尽な対応もある。でも、あの日のコーヒーの味を思い出せば、もう少し頑張れる。そう信じて、また一歩踏み出す。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。