誰かと暮らすという選択肢が遠ざかっていく理由
一人暮らしを始めたのは、司法書士として独立した直後だった。当時は「事務所と自宅が近い方が効率的だ」と考えて、駅から遠い築古アパートを選んだ。ところが、そこから20年、気がつけば生活は完全に“おひとりさま仕様”になっていた。朝起きる時間も、寝る時間も、テレビの音量も、すべてが自分の裁量で決められる暮らしに慣れすぎてしまった。今さら誰かと住むなんて、正直想像もしたくないのだ。
自分のペースを守ることに慣れすぎた日常
朝のルーティンは、コーヒーを淹れて洗濯機を回してから、ひとりでボーっと天気予報を見るところから始まる。誰にも気を遣わず、音も匂いも温度もすべてが“自分仕様”で整えられた空間。そんな日常に他人が入り込むと想像しただけで、ペースが崩れるのが目に見える。ルーティンが壊れると、仕事にも響く。これは大げさじゃなく、実際に補正のミスが増えたとき、生活リズムが狂っていたことがある。
冷蔵庫の中身もリモコンの置き場所も自由が当たり前
冷蔵庫には、飲みかけの炭酸水と賞味期限がギリギリの納豆、そして自分しか食べない謎の調味料。誰かと暮らしていたら、こんなラインナップは許されないだろう。リモコンだって、テレビの前に置くのが自分ルールなのに、他人と住んだら「ソファの上に置く派」とか現れそうで、それだけでストレスだ。些細なことに思えるけれど、日常とはその些細な積み重ねでできている。
「今日何食べる?」と聞かれるのがすでにストレス
一人なら、コンビニの冷凍チャーハンだろうが、朝からカップ麺だろうが文句は出ない。「今日何食べる?」と聞かれると、それに対して答えを出さなきゃいけない責任が生まれる。外食がいいと言えば、財布の中身が気になり、自炊がいいと言えば食材の買い出しが面倒になる。結局、気を遣うだけで疲れるのが目に見えているのだ。
元野球部が語る団体行動の疲れと反動
実は私は高校までガチガチの野球部だった。朝練、全体行動、掛け声、団体生活。上下関係も厳しく、寮では共同生活が当たり前だった。だからこそ、今の自由すぎる一人暮らしに強い反動を感じているのかもしれない。他人と生活を共有するというのは、良くも悪くもエネルギーを使う。
学生時代の寮生活が教えてくれた「他人の生活音」
あの頃、夜中に鳴る目覚まし時計に毎日イライラしていた。自分が寝ているのに、他人のスマホのアラームで起こされる不快感。隣の部屋から漏れてくる笑い声、電話の話し声、スプレーの音。共同生活ではこれらすべてが“日常音”だ。だが今の私は、その音すらもう耐えられない。自分の空間を侵される感覚がどうしても嫌なのだ。
風呂の順番待ちと起床のタイミング地獄
寮生活で最もストレスだったのが風呂の順番待ち。疲れて帰ってきてすぐ入りたいのに、「今◯◯が入ってるからあと15分待って」とか言われると、もうその時点で気力が萎える。起床も同じで、誰かのアラームで先に目が覚めてしまうと一日が台無し。そんな毎日にもう戻れないし、戻りたくない。
団体行動はもう人生で一度で十分だと思っている
あの時期を耐えたからこそ、今の自由があるとも言える。でも逆に言えば、もう二度とあんな生活はできない。会社勤めも苦手だったが、団体生活というだけで胃が痛くなるのは、元野球部あるあるだと思いたい。あの頃の記憶が、「もう誰かと暮らすのは無理だな」と確信させている。
事務所でも家庭でも気を遣うのがしんどい
司法書士という仕事は、一見地味だが実は人とのやり取りがとても多い。法務局、銀行、依頼人、そして一人だけの事務員さん。日中は常に誰かに気を遣っている状態が続く。だからこそ、家に帰ったら「無」の時間が欲しいのだ。
仕事中ですら「気を遣いっぱなし」な毎日
依頼人には丁寧に。法務局の担当者にはご機嫌を取りつつ。事務員には気を使わせないように気を使う。毎日が気遣いの連続で、帰る頃にはへとへと。そんな中、帰宅後まで誰かと一緒にいて、また気を遣うなんて、正直なところ無理ゲーだ。家だけは、唯一気を張らなくていい場所であってほしい。
だからこそ家くらいは気を抜きたい
スーツを脱いだ瞬間、やっと自分に戻れる。テレビをつけっぱなしにしていても、誰にも文句を言われない。カップ麺をすすりながら床に寝転ぶこともできる。そんな時間が、今日一日をリセットしてくれる。もし誰かと一緒に暮らしていたら、そのリセットが効かなくなるような気がして怖い。
同居=もう一つの職場のような感覚になる
よく「同居はチームワーク」とか言われるが、私にとってはそれは職場そのものだ。共通のルールがあり、相手の事情に配慮し、感情の行き違いを避ける調整が必要になる。それって、もう仕事じゃないか。だったら、家くらいは自由でいてもバチは当たらないと思う。
孤独と自由の微妙なバランス
一人暮らしには寂しさもある。夜にふとテレビを消した瞬間の静寂や、話し相手がいない休日。それは確かにある。でも、それ以上に“自由”が勝ってしまうのだ。だから、今さら誰かと暮らすことは考えられない。
寂しいときもあるが干渉されるのはもっと嫌
年末年始や誕生日など、特別な日に誰かと過ごしたいと思うことはある。でもそれ以上に、毎日干渉されるストレスの方が大きい。LINEの既読無視で気を遣い、買い物の内容で文句を言われ、飲みに行ったら連絡が遅いと叱られる。そんな関係、しんどくて続かない。
勝手に進められる会話とテレビ番組の恐怖
「今日の番組、これ観ようね」と当然のようにリモコンを取られることを想像するだけで冷や汗が出る。私の中では、テレビの主導権は“最も神聖な権利”なのだ。それを当然のように奪われる生活は、まるで自分のテリトリーを侵されるような感覚に近い。
一人の時間のありがたみを噛みしめる夜
仕事が終わって、風呂に入って、缶ビール片手に録画したドラマを観る。誰に気を遣うこともない、完全なひとり時間。こんな贅沢があるだろうか。誰かと暮らすことで失うこの自由を思うと、やっぱり一人暮らしの快適さは手放せない。