前もお願いしたと言われるたびにすり減る気持ち

前もお願いしたと言われるたびにすり減る気持ち

朝イチの一言がその日の調子を決める

司法書士として日々働く中で、一言の重みをこれほど痛感する仕事もないのではないかと思うことがある。「前もお願いしたんですけど」という言葉。これを朝一番に聞いた日には、その後のテンションはガタ落ちだ。特に忙しい時期、心に余裕がまったくない状態でこのフレーズを浴びせられると、まるで自分が役立たずだと責められているような気持ちになる。たった一言で、自分の存在意義や仕事への自信がぐらつく。情けない話だけど、そんな日がたまにじゃなく、わりと頻繁にある。

「前もお願いしたんですけど」の破壊力

このフレーズの厄介なところは、たいてい正しいということだ。つまり、言われた側に非がある場合が多い。だからこそ反論できないし、なおさら堪える。以前、依頼人から登記簿の訂正依頼を受けていたのに、他の業務に追われて後回しにしてしまい、結果的に忘れていた。数日後、「前にもお願いしたんですけど…」と言われた瞬間、胸に突き刺さるような痛みを感じた。単なる事務的な一言に、あれだけ心を乱されたのは、自分が不完全であることを突きつけられたからだと思う。

頼まれてたことを忘れていた自分を責める

日々の業務を完璧に覚えておくのは難しい。だが、「忘れていた」という事実が、自分の中でどうしても許せない。忘れてはいけないことだった。自分の信用がそこに乗っていた。忘れてしまったという現実が、自分の存在意義そのものを否定されたように感じる。私は昔から野球部で、責任感は人一倍ある方だと自負している。だからこそ、自分のミスが許せず、夜寝る前に思い出しては何度も自分を責めてしまう。

それでも責任はこっちにくる現実

誰かの責任にしたところで、結局は自分のところに戻ってくる。言われたことをメモしてなかったのか、確認しなかったのか、いずれにしても言い訳は通用しない。事務員のミスならまだしも、自分のミスとなれば「士業なんだからしっかりしてよ」と思われてしまう。そんな目で見られるのが怖くて、苦しくて、でも誰にも言えずに一人で抱えるしかない。この仕事の孤独は、こういう瞬間にじわじわと押し寄せてくる。

自分の中にある完璧主義が首を絞める

そもそも「全部自分でやらなきゃ」という気持ちが強すぎるのかもしれない。事務員に頼んでもいいことを、つい「自分がやった方が早い」と抱え込んでしまう。完璧主義と自己否定は相性が悪い。完璧を目指すのに、ミスは起きる。そのたびに「なんでできなかったんだ」と責める。自分の首を自分で絞めている状態なのに、なぜかやめられない。

事務所を回すのは自分しかいないという重圧

田舎の小さな事務所で、事務員は一人だけ。急に休まれたら、全部が止まる。そんな綱渡りのような状況で、毎日をこなしている。人を増やせばいいと言われても、人件費のことを考えると簡単にはいかない。プレッシャーに押しつぶされそうになりながら、それでもやるしかない。逃げたくても逃げられない。

完璧に応えられない自分にがっかりする

どれだけ頑張っても、感謝の言葉が返ってくるわけじゃない。逆に、「まだですか?」とか「前にも言いましたけど」と言われる始末。誠実にやってるつもりでも、それが伝わらなければ意味がないのだと思い知らされる。完璧を目指すからこそ、そのギャップに毎回打ちのめされてしまう。

お願いされた内容は覚えているつもりだった

「言われたことは全部覚えてる」なんて言えたらかっこいいけれど、現実はそうじゃない。付箋、スケジュール帳、Googleカレンダー、メモアプリ。ありとあらゆるツールを駆使しても、どこかに抜けが出る。覚えているつもりだった内容が、思い込みだったことに気づいた時のショックときたらない。

記憶とメモのズレが信頼を崩す

「たしかに聞いた気がするけど、どこに書いたっけ?」という瞬間。言われた内容がうっすら記憶には残っているのに、確証が持てない。それが一番タチが悪い。結局「やってませんでした、すみません」と頭を下げるしかない。そうやって小さな信頼がじわじわと削られていく。積み上げたものが、こうして音もなく崩れていくのだ。

「前も言ったのに」=信用の剥がれ

士業にとって信用は命だ。だからこそ、「前にお願いしたのに…」という言葉は痛い。たった一回のミスが、積み上げてきた信頼を吹き飛ばすこともある。自分の存在価値がそこで測られているような、そんな感覚に襲われる。これは思っていたよりもずっと怖いことだ。

言った言わないの間で疲弊する自分

「お願いしたのにやってもらえてない」と言われても、証拠がなければ反論できない。争うつもりもないが、釈然としない気持ちだけが残る。日々のやり取りの中で、こうした摩擦が静かに心を削っていく。目に見えないダメージほど、蓄積すると厄介なのだ。

それでもやるしかない理由

辞めたいと思ったことがないわけじゃない。でも、やめられない。この仕事には、面倒なことだけじゃなくて、たしかなやりがいもあるから。誰かの人生の節目に関わっているという実感は、どんなに疲れていても心を支えてくれる。たとえ「前もお願いしたんですけど」と言われようと、また明日、机に向かう。

守るべき依頼と生活の板挟み

依頼者の期待と、自分の生活の維持。どちらも大切で、どちらもおろそかにできない。司法書士という仕事は、社会の役に立っていると思う。その一方で、自分の生活も守らなければ続けていけない。この板挟みの中で、今日もまたミスをしないようにと、気を張り続けている。

仕事の誇りはまだどこかに残っている

こんなにしんどくても、まだ「やってよかった」と思える瞬間がある。書類を受け取って「ありがとうございました」と笑ってもらえたとき、たとえ一言でも感謝を伝えてもらえたとき、その小さな光が、また明日も頑張る理由になる。誇りというのは、派手じゃない。だけど、消えてはいない。

元野球部だからこそ耐えるしかない場面もある

高校時代、炎天下の中でノックを受け続けたあの根性が、いまになって役に立っているのかもしれない。「泣き言言っても始まらない」と自分に言い聞かせて、また一歩を踏み出す。プレッシャーに負けそうな日も、踏ん張ってこられたのは、あの頃の練習の成果だ。しんどくても、負けてたまるかと思ってる自分も、まだここにいる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓