失敗を笑い合える相手がいないという孤独

失敗を笑い合える相手がいないという孤独

笑ってくれる誰かがいないときの虚しさ

人は誰しも失敗する。だが、その失敗を「笑い合える」相手がいるかどうかで、感じるダメージの大きさがまったく違う。たとえば仕事で書類を間違えたとしても、「またやったの?」と笑ってくれる誰かがいるだけで、心の負担は軽くなる。だが、私のように一人で事務所を運営していると、その笑いすら生まれない。ミスをしても苦笑すら共有されない空間にいると、妙に自分がちっぽけな存在に思えてくる。

ミスしたときほど浮かび上がる孤独

ちょっとした書類の記入ミス。誤字脱字なら直せばいいし、登記ミスなら補正すればいい。でも、それを「気をつけようね」って言い合える相手がいないと、ただの自己嫌悪で終わる。誰にも話せず、胸の中で「なんでこんなミスを…」と自問する日々。誰かが「そんなの誰でもあるよ」と笑ってくれたら、それだけで気が楽になるのにと思う。

「あちゃー」と言える相手がいない日常

ふとした瞬間にやらかす。たとえば依頼者への返信メールを誤送信したとき、思わず「うわ、やっちゃった」と声が出た。でも、それを誰かに報告して笑い話にできるわけでもない。事務員さんに言えば仕事の流れを止めるし、プライドもある。だから結局、一人でニヤつくか、黙って修正して終わる。「あちゃー」すら言えない日常が積み重なると、知らず知らずのうちに、心がすり減っていくのを感じる。

笑われるのと、笑い合えるのは違う

「失敗したら笑われるのが嫌だ」という人もいる。でも、私が欲しいのは「笑われること」じゃなくて、「笑い合うこと」。違いは明確で、前者はバカにされることで、後者は安心して人と気持ちを共有できることだ。人のあたたかさが欲しいだけなのに、年を重ねるごとに、それが得られにくくなっているような気がする。

ミスを自分で消化することの難しさ

仕事の性質上、責任は自分一人で背負わなければならないことが多い。司法書士という肩書きは、他人に頼らない強さを求められる。でも、強がってばかりいると、どこかでひびが入る。何かやらかしたとき、「自分で処理して当たり前」と思われるのも、しんどい。気を抜いた瞬間に大事故、そんな綱渡りを日常的にしている感覚だ。

独り言が増える日々に慣れてしまった

最近、ミスした瞬間に「よし、今のはセーフ」とか「アウトかもな…」とつぶやくことが増えた。誰かに言いたいのに言えないから、無意識に自分で処理しようとしてるんだろう。これってたぶん、元野球部のクセでもあると思う。打てなかったときに「ドンマイ!」と叫んでいた記憶が残ってる。誰かがフォローしてくれる前提の言葉が、いまは独り言になっているだけだ。

「しょうがないな」で流せたらどれだけ楽か

本当は、「ああ、しょうがないね」と笑ってくれる人が一人でもいれば、救われると思う。ミスが無意味になるわけじゃないけど、心の負担が段違いに軽くなる。自分の中に積もる「こうあるべき」が多すぎて、ミスに対しても厳しくなりがちだ。だからこそ、外からのやわらかい言葉が、ものすごくありがたく感じる。

事務所という密室で起きる失敗

司法書士の事務所というのは、想像以上に「閉じた空間」だ。来客も少なく、電話と郵便が主な外部との接点。そこでミスが起きても、その空間の中でひっそり処理される。誰にも知られず、誰にも相談できず、自分の中だけで消化される。だからこそ、笑いという循環が生まれにくい。笑い声のない密室は、ただただ静かすぎて、自分の感情すら響きにくくなる。

ミスの相手はたいてい自分か、郵便局

たとえば、登記書類を送付するために郵便局へ行ったとき、宛名を間違えていたことに気づいた。慌てて差し戻しを頼み、汗をかきながら再送。誰に怒られるわけでもないけれど、自分の不注意が恥ずかしくなる。でも、そんなときに「またやったの?郵便局とは相性悪いな」なんて笑ってくれる相手がいれば、その失敗も小話になる。そういう小話を積み上げられる相手がいないと、全部が「反省ノート」に書くような扱いになってしまう。

笑えるネタがあっても、聞かせる人がいない

事務員さんに話そうかとも思う。でも、事務員さんは真面目で優秀で、私のミスをいつも無言でカバーしてくれる。だから、くだらない話で笑ってもらうのが申し訳なくなってしまう。昔の友人にLINEしても既読スルー。「仕事でこんなミスした」なんて話、みんな忙しくて聞いてられないのかもしれない。

失敗談を語れる相手がいるだけで救われる

たった一人でもいい。自分のミスを話したときに、「それ、わかるわー」と返してくれる相手がいれば、それで十分だ。笑って終わらせることができる関係性は、心を軽くしてくれる。自分の失敗を恥ずかしいこととして隠さずに、明るいものとして共有できる。その瞬間、人間関係はとてもやさしくなる。

元野球部だったころは、失敗もネタだった

中学・高校と野球部だった頃、失敗はむしろ笑いのタネだった。エラーしても、ベンチから「ナイスプレー(皮肉)」と笑われて、みんなで茶化し合って終わった。そんな関係性が、今となってはまぶしくて仕方ない。大人になると、失敗は「許されないもの」になる。でもあの頃は、失敗しても前向きになれる空気が確かにあった。

エラーしても、ベンチが笑ってくれた

ショートでゴロをトンネルした日、守備練習で同じミスを繰り返した日。悔しかったけど、仲間が「漫画みたいなトンネルだったな」とか、「お前、足に穴開いてんじゃねーの」と冗談を言ってくれた。それが救いだった。責められないことの安心感は、笑いというかたちで届いていた。

「ドンマイ」の声が今も耳に残る

試合中のミス。全員がピリつくなかで、キャッチャーが「ドンマイ」と声をかけてくれたことがある。たったそれだけで、次のプレーに集中できた。「笑い合う」という行為は、実は人を次の行動に進ませる力があると、そのとき感じた。

あの頃の人間関係は、今よりずっと優しかった

失敗をネタにして笑い、慰め合い、次に向かう。あの頃は、なんだかんだで人に囲まれていたし、甘えることもできた。今は、ミスをしたら黙って処理するしかない。それが大人ってものかもしれないけれど、時々その優しさが恋しくなる。

笑い合える関係をつくるには

大人になってから「笑い合える関係」を築くのは、正直難しい。だが、だからといって諦めていいものでもないと思う。まずは、自分が笑える余裕を持つことから始めたい。完璧主義や自責思考を少し緩めるだけで、人との距離は縮まるかもしれない。そう信じて、また明日も机に向かう。

まずは自分が「笑える余裕」を持てるか

人とつながるには、自分がピリピリしていては無理だ。ミスしたときに「またやったー!」と自分を茶化せるくらいの余裕がないと、人も笑ってくれない。自分が笑うことで、相手の緊張もほぐれる。そんな空気をつくれる人に、少しでも近づきたい。

真面目すぎると、全部が深刻になる

真面目にやるのはいいこと。でも、真面目すぎると、ちょっとした失敗でも深刻な問題に感じてしまう。「書類一枚で…」と悩みすぎる前に、「やっちゃったー!」と笑うスイッチを持つ。それだけで、仕事の風通しも変わってくる。

人と失敗を共有する勇気を持ちたい

最後に必要なのは、やっぱり「話してみる勇気」だと思う。失敗を隠さず、共有してみる。すると意外にも、相手も似たようなことを経験していて、「それな!」って笑ってくれる。そういう瞬間の積み重ねが、孤独をほぐしてくれるのだと信じている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓