幸せそうだねって言われると返事に困る理由

幸せそうだねって言われると返事に困る理由

幸せそうに見えるのは本当にいいことなのか

「幸せそうだね」って言葉、何気なくかけられることがあります。実際、誰かにとってはその一言は気遣いのつもりかもしれないし、ただの挨拶の延長なのかもしれません。でも、自分にとってはちょっと違う響きに聞こえる時があるんです。笑顔で返事をしながら、心のどこかで「そう見えてしまってるのか」と思ってしまう。特にこの司法書士という仕事、見た目ではあまり疲れや孤独が伝わりにくいのかもしれません。きちんとしていて、スーツを着ていて、周囲からは「安定してる職業」に見られる。でも、実際のところはそんなに単純じゃありません。

なぜか言われるたびに心がざわつく

「幸せそうだね」って言葉に、モヤモヤする理由は、自分でも正直よくわかりません。たぶん、その言葉が自分の現実と食い違っているように感じるからなんでしょうね。朝早くから書類作って、法務局行って、電話鳴りっぱなしで、帰るころにはぐったり。誰にも愚痴をこぼせずに晩飯はコンビニ弁当。そんな日々を繰り返していると、自分が幸せだなんて、とても言えません。だからこそ、その言葉が刺さるんです。まるで「本当は幸せじゃないんじゃないの?」って自分に問いかけられてるようで。

褒め言葉として受け取れない自分がいる

たしかに、表面だけ見れば「幸せそう」に見えるかもしれません。仕事があって、事務所もある。人に頼られて感謝されることもある。でも、どこかでずっと「これは本当の幸せなんだろうか?」と自問している自分がいます。心からの笑顔がどこかで置き去りにされているような、そんな感覚。昔は褒め言葉を素直に受け取れていたはずなのに、いつからか警戒するようになってしまいました。そうやって心がひねくれていくのが、なんだか情けなくて、余計に疲れたりもするんです。

見た目と中身がズレていることへの後ろめたさ

自分を飾ってるつもりはないけれど、外から見える自分と、内側の本音がズレているのを感じるとき、なんとも言えない居心地の悪さがあります。たとえば、お客さんの前では冷静に登記の説明をしているけれど、内心は「この件、早く片付かないかな…」と疲れきっていたり。そんなギャップを自分で抱えていると、「幸せそうだね」って言葉が、自分の嘘を見抜かれたようで、ドキッとするんです。そしてそのたびに、「こんな自分でいいのか」と思ってしまう。

日常に埋もれた小さな違和感たち

司法書士としての日常は、案外リズムが決まっていて、だからこそ「何か変だな」という違和感にも気づきにくいものです。朝から晩まで書類に追われ、誰かと会話するといっても仕事の話ばかり。そんな日々の中でふとした瞬間に、自分が置き去りにされているような感覚に襲われます。たとえば、コーヒーを飲みながら何気なく外を見ていた時、何の感情も湧いてこないと気づいたりするんです。

仕事は回っているけど心は回っていない

業務は順調にこなしている。登記も間に合ってるし、クレームもない。表向きは何の問題もない。でも、心の中はどこか空回りしている。まるで歯車がひとつだけ空回りしているような感覚。元野球部の自分は「やると決めたら最後までやり抜く」というクセがあるけど、それが逆に自分を縛っている気もします。仕事はこなせても、自分の気持ちは置いてけぼり。そんな日が、いつのまにか増えてきているのを感じます。

忙しそうだねは許せるのに幸せそうだねはなぜだめなのか

「忙しそうだね」はなんとなく現実を見てもらっている気がして、納得できる。でも「幸せそうだね」は、現実を見ずにラベルを貼られたようで、居心地が悪い。どちらも相手は悪気がないのはわかってる。でも、言葉のチョイスひとつで、こんなにも感情が揺れるんだと驚きます。自分の中にまだ整理できていない思いがあるからこそ、きっとこの違和感が生まれてくるのでしょうね。

見せることに慣れてしまった仮面

日々の業務の中で、感情を表に出さないことが習慣になってしまいました。お客さんの前ではにこやかに、役所では淡々と。気づけば、その“仮面”が自分の一部のようになっていて、本当の自分の表情がどんなだったか、思い出せなくなっていたりする。だからこそ、「幸せそうだね」と言われたとき、「ああ、自分はうまく仮面をかぶれてるんだな」と皮肉めいた気持ちがこみ上げてくるんです。ほんとはちょっと、泣きたくなるんですけどね。

そもそも幸せって何なんだろう

「幸せそうだね」って言われたとき、実は一番困るのは「幸せって何だっけ?」と自問し始めてしまうことかもしれません。正解なんてないのはわかっているけど、それでも自分なりの幸せのカタチが見えなくなることがある。お金?人間関係?仕事のやりがい?そのどれもが中途半端に感じる日、ふと孤独感に襲われます。

ひとりで飯を食っても誰も気にしない日々

夕方の仕事終わり、コンビニで買った冷たい唐揚げ弁当を食べながらテレビをぼんやり見てる。その姿を誰かが見たら、きっと「自由そうでいいね」と言うのかもしれません。でも、自由って案外さびしいもので。誰に気を遣うわけでもなく、好きな時間に好きなものを食べられるけど、「今日こんなことがあってね」と話す相手がいない。そんな日々が積み重なると、「これが幸せなのか?」と自問するしかなくなります。

昔の仲間は家族を持っているのに

高校時代の野球部の仲間は、今じゃみんな子どもがいたり、家を建てたりしている。SNSで楽しそうな写真を見るたびに、心のどこかで比べてしまう自分がいます。「自分は自分」って思いたいけど、やっぱりちょっとだけ寂しくなる。あの頃は「将来は司法書士になって食っていくんだ!」なんて意気込んでたけど、今はその“結果”の中で、また別の孤独と向き合ってるんですよね。

独身男性が言われがちな羨ましいの正体

「独身で自由なんて羨ましいよ」って言葉、何度も聞きました。結婚して子育てしてる友人たちからも、冗談交じりに言われることが多い。でも、それって本当に羨ましいのかな?こっちはこっちで孤独や不安と日々向き合ってるんです。「自由」と「孤独」は紙一重。だから「羨ましい」と言われても、笑ってうなずきながらも、心の中では「交換する?」って思ってたりもします。

それでも見失いたくない自分なりの満足感

ここまでネガティブなことばかり書いてきましたが、それでも司法書士としての仕事に誇りはあります。誰かの役に立てる瞬間があるのは、本当にありがたいことです。だからこそ、「幸せそうだね」と言われたときに感じる戸惑いを、そのまま否定するのではなく、「そう見えるくらいに頑張れてるのかもしれないな」と受け止められる日が、少しずつ増えたらいいなと思っています。

仕事がある幸せと引き換えにしたもの

忙しく働けるというのは、確かに幸せなことかもしれません。でも、そのために引き換えたものも多い。時間、恋愛、趣味、人とのつながり。元々は「仕事第一主義」で突っ走ってきたけど、今になってそれが“正解”だったのかと立ち止まることがあります。それでも、目の前のお客さんが「ありがとう」と言ってくれた時、その選択が間違いばかりじゃなかったと救われることもあるんです。

モテない人生でも自分なりの充実はあるのか

昔からあまり女性にはモテなかったんですが、だからこそ、仕事に逃げていたのかもしれません。でも最近、「別にモテなくても、誠実に生きていけたらそれでいいか」と思えるようになりました。人からの評価よりも、自分が納得できる生き方を大切にしたい。そう思えるようになったのは、年齢と経験を重ねたからかもしれません。焦る気持ちはあるけど、今の自分をちゃんと認めてあげたいとも思います。

事務員さんに先生最近楽しそうですねと言われた日の戸惑い

ある日、事務員さんに「先生、最近ちょっと楽しそうですね」と言われたことがありました。正直、びっくりしました。自分ではそんなつもりなかったし、むしろその日は朝からバタバタで余裕なんてなかった。でも、その一言がきっかけで、自分の中に少しだけ明るい部分が戻ってきてるのかもしれない、と思えたんです。誰かにそう見えたなら、それはそれで、ちょっとだけ自分を褒めてもいいのかもしれませんね。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓