不審な依頼の始まり
盆明けの蒸し暑い朝、事務所に一通の簡易書留が届いた。差出人は書かれていない。中には一枚の登記簿謄本のコピーと「この家について調べてください」という短い手紙が添えられていた。
それだけで事件のにおいがすると感じる自分は、もう少し普通の依頼が欲しいと思いながらも、封筒の中身を机に広げた。住所は近所の古い住宅街、なじみのある地番だった。
古びた家の登記簿謄本
その物件は昭和40年に建てられた木造二階建て、所有者欄には「ナカムラヨシエ」とある。しかし、気になるのは平成15年以降の異動が一切ないことだった。15年以上何の動きもない不動産は、何かを隠しているかのように静かだった。
しかも、不自然に空白になった乙区欄。抵当権も仮登記も抹消されていない。「これは面倒なやつだ」と思わずため息が出た。
名前を消した依頼人
封筒の裏にも中にも、依頼人の氏名はなかった。筆跡からして中年男性のようだが、それ以上のことはわからない。電話番号もメールアドレスもなし。つまり、こちらからの連絡手段はないということだ。
「やれやれ、、、まるで怪盗キッドからの挑戦状だな」そんなことを呟きながら、私は依頼を引き受けることにした。
サトウさんの冷静な推理
「登記簿の所有者、ナカムラヨシエさん。調べてみたら5年前に死亡してますよ」無表情でそう言ったサトウさんは、戸籍をさっと手渡してきた。
やっぱり塩対応。でも、頼りになる。戸籍には、ヨシエさんの長男と次男の名前が並んでいたが、奇妙なことに次男の転籍先が不明だった。
家族関係図に浮かぶ矛盾
家系図を手書きで作成してみると、妙なことが見えてくる。長男が相続放棄していたにもかかわらず、次男が相続していないのだ。名義が母親のままで止まっているのは、意図的なものか、それとも。
「これは遺産を巡る兄弟間の対立かもしれませんね」とサトウさんは淡々とした声で言った。冷静だけど、ちょっとだけ目が鋭かった。
相続人調査の先にある闇
戸籍を丹念に追うと、次男は10年前から消息不明。失踪届も出ていないが、住所の痕跡もなくなっていた。失踪か、あるいは隠れているのか。
相続手続きが進まなかった理由は、その次男の不在にあった。そしてこの「依頼」は、もしかしたらその次男自身からのものではないかと疑いが浮かんだ。
被相続人の失踪とその真相
近隣住民に聞き込みを行うと、あるおばあさんがぽつりと言った。「あの家の次男、時々見かけるんだけどね。夜遅くに裏口から入っていくのよ」
まるで都市伝説のような話だが、それは「失踪」ではなく「隠れ住んでいる」可能性を示していた。やれやれ、こっちは名探偵コナンじゃないんだけどな。
失踪届と戸籍の食い違い
警察にも確認したが、失踪届は出ていない。代わりに出されたのは「転出届」だった。しかし、その転出先に住民票は存在しなかった。つまり、完全に潜伏している。
戸籍上はどこにもいないのに、実際はこの町の中にいる。その事実はこの事件を一気に複雑にした。
登記簿に残された手がかり
登記簿の備考欄には、平成12年に一度だけ「所有権移転仮登記」が申請されていた形跡があった。申請人名は黒く塗りつぶされていたが、提出者欄に「ナカムラショウイチ」の名前が残っていた。
それは次男の名前だった。仮登記とはいえ、本人が所有者になろうとした過去があるということだ。
書類に込められた過去の重み
役所で保管されていた古い測量図を閲覧すると、隣地との境界が異常に食い込んでいた。しかも、現在の公図とは一致しない。
「境界争いを避けるために放置したのかもしれません」サトウさんの言葉は冷たいが、的確だった。家族の間でもめごとを避けるために、所有を曖昧にしたのだろう。
公図と地積測量図の差異
地積測量図には昭和50年代の手書きの訂正跡があり、明らかに誰かが境界線を操作していた。第三者が不動産を取得するには、明確な境界が必要だ。それがこの物件にはなかった。
つまり、意図的に売却も相続もできないよう細工されていた可能性が高い。
家族写真に見覚えのない顔
押し入れに残されていた古いアルバムには、ナカムラ家の面々が写っていたが、一人だけ戸籍に載っていない青年がいた。顔つきは次男と似ているが、明らかに違う人物だった。
「まさか、養子縁組か…?」私は震える指でアルバムを閉じた。
真相に近づくほど増える疑問
依頼人は本当に次男なのか?それとも第三者なのか?登記簿、戸籍、測量図、写真……それぞれが少しずつ違う方向を指している。
でも、それらを線で結ぶと、ある仮説が浮かび上がってきた。
登記簿に刻まれた二つの売買
もう一度確認した登記簿には、売買による所有権移転登記が二度されている。そのうち一つは実際に完了していない。おそらく、相手方が登記申請に協力しなかったのだ。
つまり、誰かが故意に取引を止めた。そうして、家を「中途半端な状態」にしていた。
時効取得か偽造かの分かれ道
15年以上誰にも相続も売却もされていない不動産は、第三者による時効取得の対象になることがある。しかし、この物件では時効取得を成立させるための占有実績が確認できなかった。
「つまり、これは誰かが狙って偽造した記録かもしれませんね」サトウさんの言葉が鋭く突き刺さった。
サトウさんの推理が導く結論
「おそらく依頼人は、次男になりすましてこの家の所有権を奪おうとしていた。けれど途中で不都合に気づいて、私たちを巻き込んだんです」サトウさんの推理に、私はうなずくしかなかった。
やれやれ、、、司法書士も探偵も紙一重かもしれないな。
誰が嘘をついていたのか
最終的に警察と連携して判明したのは、依頼人は全くの赤の他人だった。旧ナカムラ家の隣人で、登記を乗っ取ろうとしていたらしい。
しかしその動機は、「昔の借金の取り立て」だったというから驚きだ。遺産相続と見せかけての私的報復だった。
司法書士としての決断
私は関係各所に「名義変更不可」「相続調停中」の旨を登記簿に付記させた。中立であることが司法書士の使命だが、それでも正義感が揺らぐときがある。
けれどそれを支えるのが、あのサトウさんの冷静な目線だ。
家族という名の断絶
本来この家を相続すべきだった次男は、すでに海外で家庭を持っていた。今回の事件をきっかけに連絡が取れたものの、「今さら帰るつもりはない」と一言だけ返ってきた。
家族という名の結びつきは、いつか自然と解けてしまうこともあるのだ。
遺言が示した意外な真実
亡き母ヨシエさんの遺言書が見つかったのは、すべてが終わった後だった。「この家は、誰のものにもならなくていい」その一文が、今回の事件の全てを象徴していた。
本当に守りたかったのは家でも土地でもなく、家族の記憶だったのかもしれない。
失われた姓と居場所
法務局の帰り道、私はふと足を止めた。この町にはもうナカムラ姓の人はいない。それでも、あの家は変わらずそこに建っている。
誰も住まない家、けれど確かにあった記憶。それを記録するのが、司法書士の仕事なんだと、久しぶりに思い出した。
静かな終わりと次の依頼
帰ると、机の上には新しい登記申請書が置かれていた。サトウさんは何も言わず、パソコンに向かってタイピングを続けている。
「次は、どんな謎が待ってるんだか」そう呟きながら、私はお茶を一口飲んだ。ぬるいけど、少しだけ落ち着いた味だった。
依頼人の涙の意味
一連の出来事の終わりに、正体を明かした依頼人は涙を流していた。過去のしがらみに囚われたまま、生きてきたことへの後悔だったのだろう。
それを裁くのは司法書士の仕事ではない。ただ、登記簿にその事実を残すだけだ。
やれやれまたかと思いながら
次の事件が待っている。終わらない書類の山、鳴り止まない電話、そして謎を抱える依頼人たち。
「やれやれ、、、少しは普通の依頼が来ないもんかね」私は肩をすくめて、またペンを握った。