朝の電話はいつもろくなことがない
午前8時45分。事務所の電話がけたたましく鳴った。まだコーヒーも口にしていない時間帯に限って、厄介な話が飛び込んでくる。受話器越しの声は震えていて、「家の権利書を失くしたかもしれないんです」とのことだった。
誰もが一度は言う台詞だ。だが、こういうときの「失くした」は、実際には「誰かに見られた」か「手に入れられた」場合がほとんどである。既視感を覚えつつ、俺は予定していた地元の法務局行きを諦めた。
「権利書を失くした」と言う依頼人の声
依頼人の名は田所。初老の男性で、口調からして生真面目な人物らしい。30年前に購入した一軒家の名義変更で相談したかった矢先、権利書が見当たらないことに気づいたという。
「いや、家の中は探したんですけど、変な封筒しかなくて……」そう言って送ってきた書類の写真には、確かに妙な付箋が貼られていた。「見るな」と殴り書きされた紙切れが、茶封筒の口に貼り付けられている。
現場に残された一通の封筒
午後、田所の自宅へと足を運ぶと、例の封筒が机の上に置かれていた。事務員のサトウさんは封筒を一瞥すると、「紙質が違う」と言い放った。確かに、表面が少しざらついており、最近の市販品とは異なる感触だ。
「紙だけじゃなく、中身もおかしいですよ」そう言って彼女が取り出したのは、旧式の権利書だった。フォント、印影、用紙、すべてがどこか微妙に古臭い。だが一番の違和感は、付箋にあった。
封筒の中には一枚の権利書と謎の付箋
「この権利書は本物ですか?」と尋ねられ、俺は手袋をして慎重に書類を広げた。見るからに正式な様式で記載されているが、日付に目を凝らして思わず眉をひそめた。登記申請日が、実際の取引日より2週間早いのだ。
不可能ではない。ただ、違和感が強すぎる。サザエさんの波平でももう少し慎重に書類を扱うだろう。誰かが意図的に、古い書類を使って何かをごまかそうとしている。
サトウさんの冷たい一言が真実をえぐる
「この権利書、誰が作ったんですか?」その一言に、場の空気が一変した。田所はうつむき、数秒の沈黙のあと「実は、亡くなった兄の机の中から出てきたんです」と白状した。
どうやら、相続人の一人が勝手に書類を操作しようとしたらしい。問題は、今現在もその家に住んでいるのが、別の親族であるということだ。これは民事の争いでは済まない可能性が出てきた。
「この権利書、誰が作ったんですか?」
その権利書の署名欄を、ルーペで拡大して確認する。署名の筆跡が、他の文書とわずかに異なっていた。文字の起筆が浅く、まるで誰かが練習してから書いたような跡がある。
「これは……偽造の可能性がありますね」そう告げると、田所の表情が青ざめた。「兄さん、そこまでは……」だが、証拠は嘘をつかない。
登記の記録に潜む奇妙な日付のずれ
法務局で登記簿を取り寄せると、やはり記載された登記年月日が不自然に早い。通常ではあり得ない速度で処理された記録だ。旧態依然の田舎の登記官にしては、妙にテキパキしすぎている。
「やれやれ、、、」つい口から漏れた。これはもう、俺の出る幕だ。
申請日よりも前に押された印鑑の謎
登記済証の中に押された印鑑の日付が、書類作成日よりも未来の日付になっていた。まるで時間を超えたような不一致。誰かが書類を捏造し、その上で未来の証明として仕立て上げたのだ。
「これは完全にアウトですね」とサトウさん。淡々と冷酷に断じるその表情は、まるで冷徹な探偵のようだった。
謄本を照合して見えた真実
謄本に記された家屋の番号と、現地で確認した地番に微妙なズレがあった。普通の目では気づかない程度の違いだが、これがすべての鍵だった。誰かが意図的に、隣の家の情報と混同させようとしていた。
つまり、この書類に記された権利は、実はまったく別の土地に関するものだったのだ。
「この家、登記されてない」
驚くべきことに、依頼人が今住んでいるその家は、未登記だった。30年前に建てられ、以後一度も登記されたことがなかった。つまり、権利書が「ない」のは当然だった。
本当の罠は、存在しない権利書をめぐって生まれた「偽の証明」にあったのだ。
見えない毒は紙に仕込まれていた
封筒の紙からは、微量の有機溶剤の反応が出た。何らかの化学物質が染み込まされていた可能性がある。これを扱った親族が、その後体調を崩していたという証言もある。
毒は書類に仕込まれていたのか、それとも象徴的な意味なのか。どちらにせよ、この権利書が人を病ませ、争いを生んだことは確かだった。
病院に運ばれた登記名義人の過去
登記名義人である田所の兄は、半年前に急性の中毒症状で入院していた。原因は不明とされていたが、今になってようやく説明がつく。
誰が、何のために、紙に毒を仕込んだのか――その答えは、もはや確認のしようがない。だが「誰かがやった」という事実は、確かにここに残っていた。
書類に残された微かな筆跡の違和感
筆跡鑑定の結果、署名は田所の兄本人のものではなかった。おそらく、同居していた親族の一人が模倣して書いたのだろう。筆圧のかすかな揺らぎが、それを物語っていた。
「まるで怪盗キッドですね。偽造のプロです」とサトウさんがつぶやいた。俺はその例えに苦笑したが、内心は同意していた。
誰が最後にこの権利書に触れたのか
封筒の内側から検出された指紋は、田所でも、その兄でもなかった。まったく別の第三者。おそらく、土地の相続をめぐってトラブルになった従兄弟か誰かが、計画的に書類を仕立てたのだろう。
紙一枚に、これほどの策略が詰まっているとは。まったく、油断も隙もない世の中だ。
司法書士が暴く紙の裏の犯罪
事実関係を整理し、必要な証拠を集め、俺は関係各所へ報告書を提出した。検察へ回るかは微妙なラインだったが、民事訴訟には確実に発展する内容だった。
何よりも、家という生活の基盤が、いかに簡単に揺らぐかを目の当たりにした依頼人は、深く頭を下げて帰っていった。
すり替えられた印影と偽造された署名
すべてが偽りの上に成り立っていた。印影はスキャナーで複製され、署名は何度も練習して書かれたもの。偽造に要した努力と時間を思うと、逆に薄ら寒くなる。
だが、それを暴いたのは地味な司法書士と、塩対応の事務員だった。
事件の後日談は事務所の午後に
一連の対応が終わり、ようやく事務所に戻ると、サトウさんがコーヒーを淹れてくれていた。いつもどおり無言だが、妙にありがたく感じた。
「権利書って、毒にもなるんですね」彼女の言葉に、俺は苦笑しながら頷いた。まったく、そのとおりだ。
「権利書は毒にもなる」
紙切れ一枚が人間関係を壊し、命を奪いかける。登記なんて地味で退屈な仕事だと思われがちだが、その裏には人間の欲と闇が渦巻いている。
やれやれ、、、今日もまた、平和な日は遠そうだ。
次の依頼の電話が鳴る
午後3時を少し過ぎたころ、また電話が鳴った。ディスプレイには「新規相談」の文字。結局、俺の仕事は終わらないらしい。
コーヒーを一口飲み干し、俺は受話器を取った。「はい、司法書士のシンドウです」
やれやれ、、、また忙しくなりそうだ
次の事件のにおいが、もう漂っている。
どこかで誰かがまた、紙の毒に手を染めようとしているのだ。