話したいのに話せない日々が続いている
最近、「誰かと話したいな」と思う瞬間が増えてきた。けれど、それを実際に口にすることはなかなか難しい。別に深刻な悩みがあるわけじゃない。ただ、何気ない一言や、ちょっとした会話が欲しいだけ。でも忙しさや気遣いが邪魔をして、その気持ちを口に出せない。気づけば今日も無言で一日が終わる。
沈黙の中で過ごす昼下がりの事務所
午後の事務所は静かだ。コピー機の音と、たまに電話が鳴るくらい。事務員さんとは最低限のやり取りだけで、雑談らしい雑談はない。もちろん仕事は回っている。でも、何かが足りない気がする。人の声や気配って、こんなにも心を安定させてくれるものだったのかと思い知らされる。
電話は鳴るのに心は鳴らない
電話はしょっちゅう鳴るけれど、それは「仕事の音」であって「心の音」じゃない。誰かが自分に話しかけてくれているわけでもないし、自分が誰かに思いを伝えているわけでもない。用件が終わればすぐに切られ、また静寂が戻る。話しているようで、誰とも話していない。それが一番こたえる。
事務員さんとの会話も業務報告ばかりになってきた
昔はもっと雑談もあったはずなのに、今は「登記終わりました」「次のお客様来ました」ばかり。こちらが忙しそうにしているからかもしれないし、お互いに気を遣いすぎているのかもしれない。「何かおもしろいことありましたか?」って、気軽に聞ける関係に戻れたらいいのにと思う。
話したいだけなのに理由を探してしまう
「誰かと話したい」って、ただそれだけのことなのに、なぜか理由を探してしまう。「話したいって言ったら変に思われないか」「悩みがあると思われるんじゃないか」そんな心配ばかりが先に立って、口が開かない。本当は「何でもない話がしたい」だけなのに。
雑談にすら「用件」が必要な気がしてしまう心理
社会に出てからというもの、すべての会話には「目的」が求められるようになった気がする。「で、何の話?」「それって何か関係ある?」と問われそうで怖い。無駄話をする余裕も許されないような空気感が、ますます孤独を深めてしまう。雑談のハードルが高くなりすぎている。
「何かあったんですか」と聞かれそうで怖い
ちょっとでも真面目な顔で「話したいんです」と言おうものなら、「何かあったの?」と心配されてしまう。別にトラブルでも何でもない。ただ、人と話したいだけ。それなのに、「大丈夫?」と構えられると、一気に言葉が詰まる。気軽に話せる空気って、本当に大切なんだと感じる。
元野球部のクセで我慢することに慣れすぎた
「弱音を吐くな」「泣くな」「声を出せ」そんな指導を受けて育ってきた元野球部。だからか、人に頼ることや、感情を表に出すことが下手くそだ。つい我慢してしまうクセが抜けず、大人になってもそれが染みついている。誰かに甘えたいと思っても、表現の仕方がわからない。
「痛いと言わない」が正義だった青春時代
グラウンドで転んでも、肩を壊しても、「大丈夫です!」って言い切ってきた。痛みを表に出すことは、仲間に迷惑をかけることだと思っていた。あの頃はそれが美学だった。でも社会に出てからは、痛みを隠しすぎて誰にも助けてもらえない自分になっていた。自業自得だけど、つらい。
人に頼ることが苦手になったのはいつからだろう
いつからだろう、人に「助けて」って言えなくなったのは。小さい頃はもっと素直だったはずなのに、今は「迷惑かけたくない」「情けないと思われたくない」が先に立って、何も言えなくなる。だからこそ、余計に孤独が深まる。「頼る勇気」って、思っている以上に大切だ。
話しかけられたいけど話しかけない日常
本当は誰かに「今日どうだった?」って聞いてほしい。でも自分から話しかけることはしない。何となくタイミングを逃したり、「話しかけていいのかな」と迷ったり。結局、黙って一日が終わる。そういう日が増えた。話しかけられたいけど、自分が壁を作ってるのも事実だ。
コンビニの「温めますか?」が唯一の会話だった夜
ある日、ふと気づいた。今日一日で口を開いたのが、コンビニ店員さんとの「はい、お願いします」だけだったことに。その一言すらも、誰かと話せたような気がして嬉しかった。情けないと思いつつ、それくらい人の声が恋しくなるときがある。そんな夜が、たまにじゃなく頻繁になってきた。
SNSでは話せるのに現実では口が動かない
文字なら言える。LINEやXでは、ちょっとしたことをつぶやけるのに、実際に口に出すとなると難しい。画面越しのやりとりは気軽だけど、本当に心が満たされているかと言われると違う気がする。会話とは、声と表情と間のすべてがあってこそ、安心できるのかもしれない。
文字だと軽くなる気持ちと重くなる本音
文字にすると気持ちは軽くなる。でも、その一方で、伝えきれない本音もある。「こんなふうに思ってる」って送っても、相手がどう受け取るかはわからない。だからこそ、直接会って、直接声を聞いて、ちゃんと話せる場所がほしい。SNSでは埋められない隙間が確かに存在している。
専門職だからこそ相談されても弱音は吐けない
司法書士という立場上、人から相談されることはあっても、自分が相談することは少ない。信頼を失いたくない、プロとして見られたいという気持ちが、素直に弱音を吐くことを阻んでしまう。「先生も大変ですね」なんて言われても、笑ってごまかす自分がいる。苦しいけれど、誰にも言えない。
「話を聞く人」が誰にも話を聞いてもらえない矛盾
いつも「話を聞く側」でいると、自分の話を聞いてくれる人がいなくなる。相手のために耳を傾けるのは嫌じゃない。でも、自分の心がどんどん空っぽになっていくのを感じることがある。「自分の番」が永遠に来ないような感覚に陥ってしまう。だからこそ、誰かと対等に話せる時間が恋しい。
依頼人には強く見せなきゃと思ってしまう
「先生、大丈夫ですか?」なんて言われると、反射的に「大丈夫ですよ」と返してしまう。弱いところを見せたくないし、見せられない。けれど本当は、ちょっと誰かに「それ大変でしたね」って言ってもらえるだけで救われるのに。強がりの仮面が重くて仕方ないときがある。
モテなさが人間関係の足かせになることもある
独身で、特に女性との縁もなく、休日は誰とも会わない。そんな生活が当たり前になってきた。誰かと深く関わることが怖いというか、慣れていないというか…。自分が人付き合いが下手なんだと自覚している分、踏み込むのが怖くて余計に距離をとってしまう。その繰り返しで孤独が強化されていく。
優しいだけじゃ踏み込めない壁の存在
「優しいね」とは言われても、そこから先に進めない。壁を越えるには勇気が必要なのに、それが出せない。相手にとって「いい人」で終わるのは、悪くはないけれど、寂しさを埋めるものではない。優しさだけでは足りないという現実が、心に刺さる夜がある。
話すことは弱さじゃないと気づいたきっかけ
ある日、久しぶりに会った同級生に、ふと「最近つらいんだよね」と漏らしてしまった。すると、驚くほど自然に「わかるよ」と返ってきた。その瞬間、胸のつかえがすっと消えた。話すことは、弱さじゃない。むしろ、自分を救う一歩だということを実感した出来事だった。
昔の同級生にぽろっと話した一言で救われたこと
その一言は特別な言葉じゃなかった。ただの一言。でも、自分がずっと押し殺していた気持ちを誰かが受け止めてくれたことが、何より嬉しかった。「ちゃんと誰かとつながっている」そう思えるだけで、人は少し前を向けるのかもしれない。
小さな会話がもたらす大きな安心感
「お疲れさま」「今日暑いですね」そんな一言が心に染みるようになった。誰かとつながっている感じが、こんなにもありがたいとは思わなかった。大げさじゃなく、たった一言の挨拶が、自分の一日を変えることもある。だからこそ、自分も誰かに声をかけられる人でありたい。
「お疲れさま」って言葉がこんなに沁みるとは思わなかった
帰り際に事務員さんから言われた「お疲れさまでした」。それだけなのに、不思議と疲れが少し和らいだ気がした。「ちゃんと見てくれてる人がいる」その感覚が、何より嬉しい。話すことも、話されることも、大切にしていきたいと思った瞬間だった。
まずは自分の気持ちに素直になる練習から
無理に誰かと話そうとしなくてもいい。まずは、自分の「話したい」という気持ちを認めてあげることから始めたい。「誰かと話したい」って思うのは、甘えでも弱さでもない。自然なことだ。素直になることは、誰かとつながる第一歩になる。
一言つぶやくだけでも心は少し軽くなる
「今日ちょっと疲れたな」「話し相手ほしいな」そんなつぶやきを自分自身に向けてでも言ってみる。それだけでも、心がふっと軽くなる気がする。気持ちを閉じ込めないことが大事だと、少しずつ学んでいる。
話したいときに話せる場を探してみる
無理せず、少しずつでいい。近くの人に話してみてもいいし、カウンセラーや同業の仲間とつながるのもひとつ。誰かと話すことができる場所を、自分から見つけにいく。その一歩が、未来の自分を救うことになるかもしれない。