忘れられた境界の図面
あの朝、机の上に置かれた一枚の黄ばんだ図面がすべての始まりだった。依頼人は、亡き父が所有していた土地の境界確定について相談に来たのだが、どうにも要領を得ない。測量士も既に他界しており、記録も古く、どこか曖昧だった。
「この杭の位置、おかしくないですか?」と、サトウさんが図面を覗き込む。確かに現在の位置と、地積測量図にあるポイントとではズレがある。
一枚の古い土地境界確認図
図面は昭和の終わり頃のもので、手書きの線が妙に生々しい。赤鉛筆で引かれた境界線が、現在のブロック塀と微妙に違っていた。依頼人は「昔はあっちだった気がする」と曖昧な記憶を口にするが、証拠にはならない。
「このあたり、サザエさんの家みたいに長屋だったんです」と呟いた依頼人に、なんとも言えない昭和の残り香が漂った。
依頼人の不可解な説明
「父が境界を勝手に直したような気もするけど、自信がないんです」依頼人はそう言った。記憶はおぼろげで、隣の家との間に何があったのか、確かめようもない。法務局にも新しい図面はなかった。
「やれやれ、、、過去の曖昧な記憶ほど厄介なものはない」と思いながら、私はカップのコーヒーに手を伸ばした。
断片的な記憶とすれ違う証言
土地の境界とは、単なる線に過ぎない。だがその線の内外で人の感情や権利が激しくぶつかる。今回もそうだった。境界線をめぐる記憶は曖昧で、過去と現在の人間模様がねじれていく。
サトウさんは淡々と証言者のリストを作成し、私は古い関係者の訪問を始めた。
幼き頃の境界争い
近隣の古老が語った。「あのとき、子どもながらに見たよ。杭を動かしてたのはあの人だったと思う」その“あの人”とは依頼人の父だった。動機は不明だが、境界線が意図的に変えられた可能性が高まった。
私の背中を汗がつたう。司法書士は調停者であって刑事ではない。だが真実に足を踏み入れることは避けられなかった。
昔の隣人が語る違和感
もう引っ越してしまった元隣人は、意外な話をしてくれた。「ある日突然、フェンスの位置が変わってたんです。だけど文句言えない事情があって」その事情とは、依頼人の父が無償で借金を肩代わりしてくれたことだった。
つまり、恩を売る代わりに、境界線をずらした。正義ではなく取引。土地の線すら交渉材料にされていたのだ。
法務局に残された痕跡
法務局で、私は一通の古い閲覧ファイルに目を奪われた。誰かが提出した確認書類に、消された線があったのだ。訂正印もなく、まるで最初からなかったかのように。
不自然すぎるその修正跡に、私は妙な寒気を覚えた。これは測量士の判断ではない。誰かが故意に、いや、かなり手慣れた者が手を加えていた。
登記簿の記載ミスか改ざんか
サトウさんは静かに言った。「この線、誰かの“都合のいい事実”として扱われてますね」確かに、測量士の名前もいつの間にか別人のものに書き換えられていた。筆跡も違う。
「これって、もはや犯罪ですよ」私は声を落としながらも頷いた。
シンドウの手帳にある落書き
そのとき、私の手帳の片隅に描かれたラフスケッチが頭をよぎった。依頼人との初対面時、彼の話を聞きながら何気なくメモした図だ。その位置が、いま見る図面と一致していない。
「つまり、あのとき彼はすでに嘘をついていたのか、、、」私はボールペンを握る手に力が入るのを感じた。
記憶を揺さぶる一本の電話
夜、一本の電話が事務所に入った。相手は知らない名前だったが、話し出すと記憶が蘇る。「あの土地の件、実は私も巻き込まれてたんです」それは旧隣地所有者の孫で、当時のトラブルを密かに録音していたという。
私は急いで音声データを送ってもらい、イヤホンで聴き始めた。そこには依頼人の父と測量士が金銭の話をする声が残されていた。
サトウさんの冷静な指摘
「つまり、これは“確定”じゃないですね。“作為的に確定させられた”線です」サトウさんは書類を見ながら言った。私は頷くしかなかった。境界は、人の手で引かれ、人の都合で消される。
司法書士として、この線をどう扱うか。判断は私に委ねられていた。
かすかな記憶の手がかり
私はもう一度、依頼人の話した断片的な記憶を思い出していた。「父は、いつもこう言ってた。線なんか、自分で引けるって」その言葉こそが、すべての鍵だったのかもしれない。
記憶と事実の間には、いつも無数の“可能性”が潜んでいる。
夜の現地調査と崩れた杭
私は懐中電灯を片手に、夜の現地へ向かった。雨上がりの土は柔らかく、杭の一本が斜めに埋まっていた。足元を掘ると、出てきたのはさらに古い杭。その位置は図面とも一致していた。
誰かが、上から新しい杭を打ち込んだのだ。本来の境界を覆い隠すように。
地面に刻まれた意外な証拠
杭のそばに、古い瓶の破片と錆びたメジャーが落ちていた。それは測量士が使っていたものに似ていた。つまり、改ざんの現場そのものが、地面の中に眠っていたのだ。
私は携帯で写真を撮り、証拠保全の準備を進めた。
隣地所有者の態度の変化
翌朝、隣地の所有者が事務所に現れた。「あの、実は以前から気づいてたんです。杭がズレてること」彼は、やっと話す決心がついたという顔だった。黙っていたのは、依頼人との関係を壊したくなかったからだ。
しかし、過去の偽りが未来を縛るなら、それは真の沈黙ではない。
全てをつなぐ記憶の断片
依頼人と再び会った私は、事実を淡々と伝えた。彼は静かに目を閉じた。「やっぱり、父はそんなことをしてたのか、、、でも、どこかでわかってた気がします」
彼の言葉は、自身の中の記憶を肯定したようにも、否定したようにも聞こえた。
線引きに込められた秘密
人は、都合のいい場所に線を引きたがる。物理的にも、心理的にも。それは誰のせいでもなく、社会の構造かもしれない。だが、私は思う。真実の線は、記憶の中にも引かれているのだと。
そしてその線を照らすのが、司法書士の役目だと。
消された境界の理由
依頼人の父が線を動かしたのは、決して私利私欲のためだけではなかった。家族を守るため、苦渋の選択だった。だが、それは正当化されることではない。
線を戻すことはできない。けれど、知っておくことはできる。過去を修復する第一歩として。
やれやれ、、、最後の一手
私は修正案と資料をまとめ、関係者に提案した。揉め事は避けられなかったが、全員が納得する形で和解が成立した。土地の線はわずかに動いたが、心の線も少しだけ、ほぐれた気がした。
「やれやれ、、、うっかり線を引き違えてたのは、こっちだったかもな」私は独りごちて笑った。
うっかりが導いた真実
最初の図面の読み違いがなければ、ここまで深く調べなかったかもしれない。結局のところ、私の“うっかり”が、真実を引き出した。
そんな皮肉が、少しだけ誇らしく感じた。
司法書士としての矜持
線を正すことは、心を正すことでもある。私はそれを、この事件で学んだ。司法書士とは、目に見える線だけでなく、目に見えない境界にも向き合う存在なのだ。
そしてまた、明日も線と格闘する日々が続いていく。
事件の結末と静かな境界
境界が確定し、登記簿に新たな記載がなされた。誰もが静かに頷き合い、土地に平穏が戻った。記憶と現実がようやく交差した瞬間だった。
夕暮れ、私は現場をあとにしながら、かすかに笑った。
再び引かれた一本の線
それは昔よりわずかに東にずれていたが、そこに立つ者たちの心は、確かにひとつだった。
線とは、人の在り処を示すだけでなく、人の想いを結ぶものでもある。
記憶と土地をつなぐもの
人は忘れる。だが、土地は記憶している。杭一本、線一本が、何十年も前の出来事を今に伝えてくれる。司法書士とは、その声なき声を、読み解く仕事なのかもしれない。
風が吹いた。秋の匂いが、どこか懐かしく感じた。