ひとり時間は好きだが誰かと話したくなる夜もある
ひとり時間が好きだったはずの司法書士の日常
地方都市の一角、古びたビルの二階にその事務所はある。看板には「進藤司法書士事務所」と、控えめなフォントで書かれている。朝8時半。私はいつもより少し遅れてドアを開けた。サトウさんの姿がない。そう、今日は有給だったのだ。
静かな事務所に響く自分のキーボード音
カタカタカタ……と自分の打鍵音がやけに耳につく。「いいねえ、集中できるねえ」と強がってみても、誰にも返されるわけではない。かつてはこの静寂こそ至高だと思っていた。だが今は違う。空気が重たい。書類もプリンターも、なぜか今日は全部よそよそしい。
サトウさん不在の午後に訪れる焦燥感
「先生、それ違います」とサトウさんに軽く訂正されるのも、もう慣れてきた。いないと不便な存在だと、今日ほど実感したことはない。書類の山を前に、ため息の連続。
書類の山と向き合いながら感じる孤独の重さ
法務局からの戻り道、いつもなら「ラーメンどうです?」なんて誘われるが、それもない。昼はコンビニのパンと缶コーヒー。誰とも会話せず、午後4時。「これじゃ探偵の独白パートじゃないか」と、自分でツッコミを入れる。
世間の「ひとり好き」への憧れと現実の乖離
ネットでは「おひとりさま最高!」なんて声が多い。だが実際のところ、あれは編集されたハイライトだ。ひとりで温泉、ひとりで映画、ひとりで焼肉……それなりにやってきた。でも。
ひとり時間=自由 という幻想
気ままに時間を使えることが自由かと言えば、必ずしもそうじゃない。無限の自由は、選択の重さと責任を伴う。何をしても、誰もツッコんでくれないし、笑ってもくれない。
孤独と静寂は似て非なるもの
一見穏やかで心地よい「静けさ」は、気を抜くと「孤独」という名の怪盗にすり替わる。油断も隙もない。サザエさんが波平に怒られるあの日常に、私は嫉妬すら覚える。
SNSでは語られない“ひとりの限界”
「一人最高」と言いながら、投稿しているのは誰かとの写真だったりする。不思議なことに、本当に一人のときは写真なんて撮らないものだ。記録しても、見せる相手がいないのだから。
「やれやれ、、、」とつぶやく夕暮れ
いつの間にか外は暗い。街灯がつく。事務所の窓から、カラスの群れが見える。キーボードを打つ手を止めて、「やれやれ、、、」と独りごちた。今日一番、心から出た言葉だった。
誰にも見せない疲れた顔
誰にも見られていないことに甘え、少し背を丸めた。鏡に映る自分は、まるで事件の真相を語り終えた名探偵のような顔をしていた。いや、むしろ容疑者側かもしれない。
サトウさんの「お疲れ様」が沁みる理由
ふだん何気なく聞き流していた「お疲れ様です」のひとこと。それが、こんなにも温かいものだったなんて。あの言葉には、もしかすると魔法がかかっていたのかもしれない。
人と関わることの面倒くささとありがたさ
人付き合いは、面倒だ。何度もそう思ってきた。だが完全にそれを絶ってしまえば、温もりまで手放すことになるのだと、今日わかった。
煩わしさの中にある温度
会話のズレ、予定の調整、気を遣う時間。そういう煩わしさの中にしかない「人間らしさ」がある。サトウさんが「先生またやりましたね」と笑う声が恋しい。
ふと恋しくなる他人の声
誰かが「先生!」と呼んでくれる、その響きが、ひとり時間では得られない贅沢だと知る。きっと私は、いつの間にか孤高の怪盗ではなく、ただの迷子になっていたのだろう。
元野球部のくせに団体行動が苦手になった理由
若いころは背番号で呼ばれ、チームで戦っていた。それが今じゃ、書類の山と二人三脚。協調性なんてどこへやら。「野球部だったんですよね?」と聞かれるたび、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
また明日も一人で過ごすつもりだったけれど
その夜、スマホに一通のメッセージが届いた。 「明日、ちょっと早めに出勤します。お昼でも一緒にどうですか?」 サトウさんからだった。
「お茶でも行きますか?」の一言の力
短い文の中に、どれだけ救われる思いが詰まっていたか。私はふと笑ってしまった。ひとり時間も好きだ。でも、誰かと交わす言葉は、もっと好きかもしれない。
ひとりと孤独の境界線
その線は、自分で思っているよりもずっと曖昧で、ほんの一言で乗り越えられるものなのかもしれない。
限界を知ることは悪いことじゃない
限界を知るからこそ、人に優しくなれる。 自分を知るからこそ、ひとりの時間にも意味が生まれる。 私は今夜もひとりだったが、明日は少し違う。 そしてそれで、充分だと思った。