スマホを開くたびに自分だけ取り残される気がする朝
朝一番にすることが、メールチェックでもなく、新聞でもなく、SNSの通知確認という自分に気づいたとき、なんともいえない疲れを感じた。開けば誰かの幸せそうな投稿、楽しそうな写真、誕生日のお祝いコメントの嵐。そんなものを見るたびに、自分の朝が一層どんよりする。誰かが結婚した、子どもが生まれた、旅行に行った、昇進した、そんなことを知らされるたび、なぜか胸の奥がギュッと締めつけられるようで、スマホをそっと伏せたくなる。
仕事の合間にふと見てしまうタイムラインの罠
昼休みや、登記情報の確認で一息ついたタイミングに、ついスマホを手に取ってしまう癖がある。何か新しい情報でも入っていないかと期待する反面、開いた瞬間に後悔することも少なくない。そこに並ぶのは、久々の同級生の結婚式や、同業者の事務所移転祝いの投稿、果ては「人生充実してます」と言わんばかりのキラキラした画像たち。たった数秒見るだけで、自分だけが取り残されたような孤独感に襲われるのだ。なのに、なぜか見てしまう自分がいる。
充実しているように見える他人の投稿がつらい理由
SNSには編集された現実しか映らないと分かってはいる。だが、それでも綺麗に切り取られた幸せの断片を見ると、自分の毎日が急に色褪せて見えてしまう。僕の一日は、朝から書類確認、昼にはお客様対応、夕方には登記のオンライン申請や電話応対で気づけば真っ暗。そんな生活の中で、ラーメンの写真一枚アップする気力すら湧かない。だからこそ、笑顔が溢れる投稿を見ると、まるで自分が「劣っている」と突きつけられているようで苦しくなるのだ。
いいねの数が気にならない人間になりたかった
自分が投稿することもあった。美味しかったランチや、事務所の小さな変化、仕事の達成感。それを誰かに共有したくて。でも、気づけば「いいね」の数に一喜一憂してしまい、「こんな投稿、誰も興味ないんだな」と自分にダメ出しをする悪循環に陥った。司法書士としての実績や信頼なんて、画面の向こうでは評価されない。「いいね」一つに気を揉む自分が、情けなくて虚しくて、結局アカウントをそっと閉じるしかなかった。
投稿することすら怖くなってしまった僕の話
ある時から、SNSで何か発信することに臆病になっていた。誤解されるんじゃないか、変に思われるんじゃないか、痛々しいと思われたらどうしよう。そう思ううちに、気軽な投稿すらもやめてしまった。気づけば見るだけの存在になり、それすらもしんどくなっていった。誰かに届かなくてもいいから、自分の気持ちを外に出す場所があれば…そう思っていたのに、SNSはもはや心を閉じ込める檻のように感じられた。
「見られること」が前提のSNSに疲弊していく日常
SNSは本来「つながる」ためのツールなのに、いつのまにか「見せる」ことが中心になってしまった。誰が見ているかを意識し、誰にどう思われるかを気にする。そんな毎日を送っていると、自分の言葉がどんどん不自由になっていく。投稿するたび、頭の中では無数の目線を想像してしまい、気楽さなんて消えてしまった。SNSが楽しかったのは、まだ誰も知らない頃だった気がする。
気づけば何も発信できなくなっていた心の変化
「誰にも迷惑をかけていないんだから自由に発信すればいい」と思い込もうとしても、実際には怖くてできなかった。投稿ひとつで人間関係にヒビが入ったらどうしようと考えてしまう。特にこの仕事をしていると、信頼が命だからなおさらだ。ほんの軽い愚痴さえも、誰かに見られているかもしれないと感じて口を閉ざすようになった。そうして発信をやめた結果、ますます孤独を深めることになった。
本当の孤独はSNSにあったのかもしれない
誰かとつながりたくて始めたSNS。なのに、気づけば「誰からも見られていない」と思う瞬間に、深い孤独が押し寄せるようになっていた。つながっているはずなのに、何ひとつ本音を話せる場がない。友人の結婚式に呼ばれず、投稿で知った時には、なんともいえない取り残された感覚に襲われた。孤独は、目の前に誰もいないときではなく、「誰かがいるのに自分がいない」空間でより強く感じるものだと知った。
つながっているのに誰とも話せていない感覚
フォローしている人もフォロワーも、それなりに数はいる。でも実際に言葉を交わす相手はほとんどいない。表面的なやり取りばかりで、本当に「会話」をしている感じがしない。DMすら何かの用件があるときだけ。僕の近況を心から気にしてくれる人なんて、SNSにはいないのかもしれない。そんな虚しさが積もり、いよいよスマホを開くのがしんどくなっていった。
誕生日の通知に反応できない自分を責める夜
SNSが教えてくれる「今日は〇〇さんの誕生日です」の通知。以前はちゃんとコメントしていた。でも、忙しさや疲れでスルーすることが続くと、だんだん罪悪感が積み重なる。人には言えないが、誕生日を祝う元気すらない日もある。それでも相手には関係ない。祝わなければ「冷たい人」と思われてしまうかもしれない。そんなプレッシャーに押し潰されそうになる夜が、何度もあった。
祝われる人と忘れられる人の差に勝手に落ち込む
そして、自分の誕生日に通知が出ても、誰からも反応がないときがある。昔は10件以上コメントがあったのに、今は1件か2件。それを見て、ああ、自分はもう誰かの中で優先順位が低いんだな、と勝手に落ち込む。「祝ってもらえなかった」と人を責める気はない。でも、自分が忘れられていく感覚は、SNSがあるからこそリアルに突き刺さる。なければ知らずに済んだのに。
SNS断ちをして見えてきた仕事との向き合い方
数ヶ月前に、思い切ってSNSを断った。アプリを削除し、ログインすらしない日々。それでも最初はソワソワして落ち着かなかった。でも、1週間、2週間と経つうちに、少しずつ気持ちが軽くなっていった。不思議なことに、仕事にも集中できるようになり、イライラすることも減った。誰かと比べる必要がないというだけで、これほどまでに心が平穏になるのかと驚いた。
誰かと比べないことでしか保てない日々のバランス
SNSを見ていた頃は、常に自分の生活と他人の生活を比べていた。知らない間に、無意識に。「自分はまだまだだ」と思ってばかりで、焦りと不安が募っていた。だがSNSを断ってからは、今の自分に目を向けられるようになった。事務所を無事に回していること、依頼者とのやりとりがうまくいったこと、それだけで十分に価値があると気づけたのは、他人を見なくなったからだった。
スマホを置いて気づいた事務員さんのさりげない優しさ
ある日、スマホを見ずに午後の仕事を進めていたとき、事務員さんがふと「先生、今日ずっと機嫌いいですね」と言った。何気ない一言だったが、はっとした。もしかすると、SNSで心を乱されていた僕は、それを無意識に職場に持ち込んでいたのかもしれない。スマホを置くことで、目の前の人との関係が少しだけ良くなる。SNSの通知よりも、大切なものがここにあったのだと、やっと気づけた瞬間だった。