いつもの朝に忍び寄る違和感
事務所の扉を開けると、冷房の効いた空気が肌にまとわりついた。暑さに辟易しながらデスクに座ると、いつものようにサトウさんが無言で一日のスケジュールを渡してくる。特に変わりない……はずだった。だが、今日の封筒の一つだけ、どこか手触りが妙に湿っていたのだ。
サトウさんの無表情な忠告
「この封筒、変な匂いがします」そう言ってサトウさんが鼻をしかめた。匂い?と受け取ってみれば、たしかに微かなインクのような、あるいは何かを消した後のような匂いがする。司法書士として書類の違和感には慣れているつもりだったが、これは妙だ。思わずペンを置いた。
書類の山と一通の封筒
封筒の中身は、土地の名義変更に関する委任状と売買契約書。見る限り形式に問題はない。ただ、なぜか依頼者の直筆署名がぎこちない。まるで誰かが見よう見まねで書いたような筆跡。コピーじゃない、インクの滲みが生々しいのだ。どこかで見た筆跡に似ている気もする。
認印が語る違和感の正体
司法書士の仕事は、「おかしい」に気づくことから始まる。印影を確認しながら、シンドウはかつての似た事案を思い出そうと記憶を辿った。だが、それが誰のものかすぐには思い出せない。記憶の断片が、ジグソーパズルのように嵌まりそうで嵌まらない。
書式のくずれた委任状
委任状の様式が古い。最近の司法書士が使わないレイアウト、余白の取り方も変だ。まるで昭和の終わり頃の書式を誰かがネットで引っ張ってきて、無理やり使ったような形跡があった。こういう不自然な資料の出どころには、たいてい「なかったことにしたい事情」がある。
裏書きされた筆跡の謎
ふと、契約書の裏面にうっすらと見える走り書きに気づいた。誰かがメモ代わりに使ったのだろう。だが、その筆跡——これだ。以前、不動産登記を巡って偽造が疑われた依頼者と同じ筆跡。あのときは証拠不十分で手を引いたが、今度は逃さない。背筋に緊張が走った。
依頼人の言葉に潜む矛盾
午後、依頼人が事務所に現れた。笑顔で「よろしくお願いします」と言いながら、どこか急ぎすぎている印象。手土産の羊羹が妙にベタついていたことを、サトウさんはあとで呟いた。「あの人、手汗すごいですね」と。汗なのか、あるいは緊張の証なのか。
名義変更を急ぐ理由
「親が高齢なので、早めに手続きを済ませたいんです」依頼人はそう言った。だが、戸籍を確認すれば、被相続人は既に数年前に死亡していた。しかも、今回の物件はその死亡時には相続財産に含まれていないことになっている。つまり、何かが後から動かされている。
声のトーンと眼の揺らぎ
問いかけの中で、依頼人の声が一瞬だけ上ずった。「ええ、それは……ちょっと父の名義にした時期が不明で……」サトウさんがその瞬間、書類のコピーを手に無言で一歩近づいた。その顔は、まるでルパン三世の銭形警部が犯人に向ける顔に似ていた。
サトウさんの裏調査開始
「ちょっと、外回り行ってきます」そう言って出ていったサトウさんは、戻ってきた時にはすでに書類の出どころを突き止めていた。「この委任状、3年前に別の名義で登記された時と同じタイプライターのフォントですよ」塩対応のくせに、こういう時は頼りになる。
登記簿から浮かび上がる過去
古い登記簿を照合すると、当該不動産には数回の名義変更の記録があった。しかし、ある期間だけ所有者が空白になっていた。調べると、その期間中に金融機関との競売があったことが判明。今回の依頼は、その空白を利用して虚偽の権利主張を試みたものだった。
地元金融機関の噂
シンドウの友人が勤める地元信金に連絡を取ると、過去に同じ氏名で保証人詐欺未遂を起こしていた人物と一致。名前だけでなく、住所の番地まで一致する。今回の依頼は、その延長線にある。狙いは登記を経由して資産を裏で動かすこと。いわば、偽装された相続。
追い詰められる選択の連鎖
翌日、依頼人が再び来所した。彼の持参した印鑑証明は、有効期限を数日過ぎていた。「しまった」と本人が気づくより先に、サトウさんが笑いもせず告げた。「更新してからまたいらしてください」冷たく、しかし優しい追い詰め方だった。
空白の印鑑証明
シンドウはその間に、過去の偽造案件に関する記録を整理した。そして気づく。印鑑証明と委任状の発行自治体が一致しない。「なぜ二つの書類が別の市町村で出てるんですかね?」やれやれ、、、と内心つぶやきながらも、確信はほぼ得た。これは完全にクロだ。
やれやれの中にある確信
「あとは警察に回しますかね」そう言いながら、シンドウは警察に内部通報文書を作成した。事務所の冷房の音が、少しだけ静かに聞こえた気がした。事件の正体が明るみに出るとき、暑ささえも冷えるのだろうか。
真実を照らす小さな痕跡
ファクスの受信履歴を見ると、深夜に誰かが事務所に匿名FAXを送っていた。中には「この書類は嘘だ」というメモと古い写真のコピー。写っていたのは今回の依頼人と、かつての偽造事件の関係者。匿名者は、内部の誰か——それもおそらく、共犯だった者だ。
ファクスに残された逆転の鍵
その写真は決定的だった。背景に写る不動産の看板と住所、日付のスタンプ。すべてが虚偽を裏付ける。サトウさんがぽつりと、「サザエさんだったら、カツオが絶対にやらかしてるレベルの雑さですね」と言った。まさにその通りだった。
元野球部の読みが冴える瞬間
「カウント3ボール1ストライク……そろそろ決め球だな」そうつぶやきながら、シンドウは電話を手に取った。「お世話になっております。司法書士のシンドウと申します。念のためお知らせしますが——」あとは、流れのままに真実が明るみに出るだけだった。
すべての署名は嘘を暴く
数日後、依頼人は逮捕された。警察の発表によれば、過去にも類似の登記詐欺未遂で捜査対象となっていた人物だった。証拠となったのは、裏書きの走り書きと、わずかに異なる筆跡の重なり。人間の手が、結局はすべてを語る。嘘を隠すには、指が多すぎた。
表に出なかった依頼人の本性
「最初はちょっとしたつもりだったんです」そう供述したという。だが、そのつもりがいくつも重なり、やがて誰かの家や財産を奪う結果となる。たかが署名、されど署名。その重みを、シンドウは知っている。だからこそ、決して妥協しない。
登記完了の先に残るもの
事件が片付いたあと、残されたのは書類の山と冷めたコーヒーだった。登記は一行の文字で変わるが、人の人生は一行では済まない。だからこそ、司法書士は嘘の裏にある真実を見抜かなければならないのだ。
事件後の午後と二人の沈黙
「ふう、やれやれ、、、」とシンドウがつぶやくと、サトウさんは黙ってアイスコーヒーを差し出した。冷たさが、喉の奥に沁みる。外はまだ猛暑だったが、事務所の中には静かな余韻が流れていた。
サトウさんのひと言とアイスコーヒー
「次はもう少し面白い嘘を持ってきてほしいですね」そう言って、サトウさんはパソコンに向き直った。シンドウは少し笑いながら、山積みのファイルに目をやった。「面白い嘘か……なら、俺の人生全部ネタになりそうだな」
もう一つの裏書き
誰にも見せないように、シンドウは手帳の片隅にこう書いた。「嘘を裏書きするのは、真実の責任を逃れたい者である」。まるで、自分への警告のように。それがまた次の仕事に繋がることを、きっと彼は知っていた。