法務局の午後は静かに始まった
夏の陽射しが傾きかけた午後、法務局のロビーには静かな時間が流れていた。窓口に並ぶ人もまばらで、事務所から持ち込んだ登記書類を片手に、私は少しだけ気を抜いていた。
提出締切の五時まで、まだ四十分以上ある。余裕だと思っていた。いや、思い込んでいたのかもしれない。こんな日ほど、ろくなことが起きない。
書類の最終チェックをしようと開いた封筒の中に、妙な違和感があったのはそのときだった。
受付窓口の女の一言
「あの……これ、今日の日付じゃないですよ」
受付の女性が差し出した書類を指して言った。たしかに、申請日が昨日の日付になっていた。誰だ、こんなミスを……と考える前に、自分の手書き文字だと気づき、頭を抱えた。
「やれやれ、、、」私は深くため息をつき、書類を引き取るとベンチに座り直した。
シンドウの書類ミスとため息
サトウさんにまた呆れられるな。そう思いながら、訂正印を押す準備をする。しかしふと、訂正しようとした瞬間、記載された住所に既視感を覚えた。
どこかで見たような…。いや、確かに先週、別件で扱った物件と同じ地番だった。申請者もそのときと同じ「三浦ユウタ」。
だが、その物件は、先週別の登記が完了していたはずだ。まさか……。
一通の登記申請書に異変が
改めて書類をめくっていくと、物件情報は完璧に一致している。しかし一つだけ違うのは、「原因及びその日付」欄に記載された内容だった。
そこには「令和七年八月一日 贈与」と記載されていた。だが、前回は「売買」だったはずだ。
贈与と売買。この違いが意味するのは、単なる名義変更の話ではない。何か裏がある。
日付が一日早い謎
そもそもこの書類、なぜ一日前の日付が書かれていたのか。間違いとは思えない。
もし提出が前日扱いになれば、今日提出された別の書類よりも優先される可能性がある。それが法務局の「先願主義」だ。
つまり、意図的に昨日の日付にしていた? そしてその目的は――。
申請者欄に見覚えのある名前
私はスマホを取り出し、先週の登記完了通知メールを検索した。そこには確かに「三浦ユウタ」名義の売買登記が完了しているとあった。
だが今目の前にある書類には、まったく同じ不動産に対して、別の登記原因が記されている。二重登記…? いや、それを狙った何者かの仕業か。
「これは……怪盗キッドでも手を焼くぞ」と思わず呟いた。
サトウさんの冷静な指摘
事務所に電話を入れると、例によって冷静な声が返ってきた。「はあ、それって前の登記に横取りをかぶせてるってことですか?」
「そうだ。だが……時間が勝負だ。これ、五時までに法務局が気づかなければ……」
「もう一通、偽の贈与登記が先に受理されるってわけですね」
提出時間に潜む違和感
「今、時刻は?」私は時計を見る。「午後四時十五分」
その瞬間、背中に冷たい汗が走った。書類の受領印にはすでに「午後四時」と打たれている。
つまり、法務局側では既に書類を受け取ったことになっているのだ。これは仕組まれている。
ゴム印のかすれた痕跡
さらに受領印をよく見ると、インクが濃すぎる。おそらく、直前に複数の書類に押されたばかりのゴム印。
誰かが先に滑り込ませたのだ。だが、名前が「三浦」……あの男、こんな器用な真似ができるとは思えない。
やはり、裏に誰かいる。用紙の端が少しよれている。誰かが何かを差し替えた痕跡――。
シンドウが気づいた一行のメモ
封筒の底に、小さなメモが貼り付いていた。「先に通して。礼はいつもの口座に」
間違いない。法務局内部の職員が関与している。あの受付の女性か、それとも……。
「やれやれ、、、俺の午後はいつもこうだ」私は封筒を握りしめ、受付へと向かった。
封筒の中に忍ばせた真実
「すみません、これ、他人の登記書類が混入してる可能性があるんですが」私は受付の女性に封筒ごと差し出した。
驚いた様子の彼女が封筒を覗いたとき、メモがひらりと落ちた。それを見て、彼女の顔色が変わる。
一瞬の沈黙。その後、彼女は奥へと消えていった。
やれやれと呟く前に
十数分後、局長らしき人物が出てきて言った。「お調べしたところ、不正な申請が確認されました。こちらで対応いたします」
ふう、と息を吐いた私は、時計を見た。「四時五十八分」。ギリギリだった。
「あの受付嬢、犯人じゃなくてただの駒かもしれませんね」そう呟くと、どこかルパン三世のエンディングテーマが脳内再生された。
法務局が閉まる前の攻防
一歩間違えれば、登記権利の優先順位が覆されるところだった。
それをたった一行のメモで止められたのは、ほんの偶然か、あるいは神様が疲れた司法書士に微笑んでくれたのか。
「サトウさん、今日は冷やし中華でいいか?」と電話をかける。返ってきたのは「勝手にどうぞ」の塩対応だった。
最後の五分に走る司法書士
事務所への帰り道、夏の夕陽に照らされながら思った。
もうちょっと楽な仕事はなかったのかと。だが、やっぱりこの仕事が嫌いじゃない。
誰かの暮らしを守る仕事。記録の裏にある人間の思惑を読む仕事。それが、俺の野球部魂だ。
サザエさんのエンディングに間に合わない
テレビをつけると、ちょうどサザエさんが波平に説教されていた。
「まあたまには間違いもあるさ」と笑っているマスオさんの顔に癒されながら、今日一日を振り返る。
そして、もう一度。小さく、呟いた。「やれやれ、、、」
真犯人は書類の順番を知っていた
数日後、法務局の人事異動に一人の名前が載った。あの時、メモを拾った若い職員だった。
真相は闇の中だ。だが、二度と同じ手口は使えない。
そう確信しながら、私は次の依頼書に赤ペンを走らせた。
申請の先後が意味するもの
登記の世界では、時間がすべてを決める。それは一分一秒の差が命取りになる世界。
たとえば、今日のような午後四時十五分の署名。その記録が、すべてを左右する。
そしてその記録を、俺たちは守らねばならない。
書類の山に隠された犯意
事務所の隅に積まれた書類の山。その中にまた、新しい謎が潜んでいるかもしれない。
私はそれを一枚ずつ丁寧にめくりながら、深く腰を沈めた。
事件は、たいてい、紙の裏にある。