登記簿にないひび割れ
雨上がりの午後に舞い込んだ依頼
雨粒がようやく止んだ午後のことだった。私はコーヒー片手に、濡れたスーツの裾を気にしながらデスクに戻った。そんな折、事務所のドアが静かに開き、ひとりの中年女性が入ってきた。
「この土地、誰にも売らないって約束だったんです。でも…」と差し出されたのは、一枚の売買契約書だった。記載内容は一見まともだが、どこか釈然としない空気が漂っていた。
瑕疵担保責任にまつわる奇妙な相談
売主である彼女の兄がすでに亡くなっていること。買主が急いで登記を進めたこと。更には建物の土台に大きなひび割れがあったこと。そうした事実が次々と明かされていく。
「隠してたんです。兄は…その瑕疵を」彼女は震える手で言った。私は書面をじっと見つめた。契約には、瑕疵担保責任を免除する条項が明記されていた。しかし、それが有効だったかどうかには疑問が残った。
売買契約書に仕込まれた違和感
事務所でのささやかな舌戦
「この免責条項、文言が古いですね」とサトウさんが言った。「平成初期のテンプレートを改変した跡があります。しかも、この契約書……インクの種類がバラバラです」
私が「つまり?」と促すと、彼女は淡々と返す。「誰かが後から都合よく差し込んだ。もっと言えば、原本を改ざんしている可能性があるということです」
売主の表情が語ること
相談者の女性は、目を伏せたままだった。「私は、兄の意思を守ろうとしただけなんです……。でも、あの家には……彼女がいたんです」
「彼女?」私は聞き返した。どうやら兄の内縁の妻が、建物の瑕疵を知りながらも黙認していたらしい。しかも、契約時に立ち会いながら売主を名乗らなかった。
瑕疵と心の空白を埋める証明
サトウさんの冷静な一手
「この契約、時系列に矛盾があります。兄が亡くなった日付と、契約締結日が一致しすぎてる。これ、印影だけ先に用意されてた可能性が高いですね」
サトウさんはスキャンした印影データを拡大してみせた。「押印が浅いでしょう? 生前に押されたものじゃない。つまり、誰かが死亡後に偽造した可能性がある」
契約条項に潜んだ動機
土地の名義を移したかったのは、彼女ではなかった。その“彼女”――内縁の妻こそが、相続の蚊帳の外から登記を奪い取るため、売買契約を装ったのだ。
しかも瑕疵担保責任の免責条項をあらかじめ差し込むことで、万が一の追及を回避する。だがその細工は、司法書士の目を誤魔化せるほどには緻密ではなかった。
法の網の目をすり抜けた過去
過去の登記履歴が語る裏側
「この土地、以前にも似たようなトラブルがありましたよ」私は過去の閉鎖登記簿を見せながら言った。「所有者の変更理由が不自然に多いんです」
「彼女は同じ手口を使って、これで三件目です」とサトウさん。私は彼女の調査力に驚きつつも、それを顔に出さないように「やれやれ、、、」と呟いた。
瑕疵の正体と心の補修
嘘と真実を分ける登記原因の一行
決め手は「代物弁済」と記された登記原因だった。本来、現物をもって弁済する場合に使う言葉だが、このケースでは意味が通らない。
内縁の妻が第三者に金銭を渡し、書類をでっち上げていた形跡があった。法的には通らない。だが、通ってしまったのは、売主が無知だったから――いや、心に傷を抱えていたからかもしれない。
シンドウ、うっかりを武器に逆転する
「あれ? このハンコ、逆向きですね」と私が言った。気づいたのは偶然だった。だが、その一言が決定打となった。
鑑定の結果、印鑑が後から押されたものであることが証明された。訴訟にはならなかったが、登記は白紙に戻され、土地は本来の相続人に戻された。
結末と、補えなかったもの
サトウさんのひとことが刺さる夜
「結局、法律じゃハートの瑕疵までは救えませんね」とサトウさんがぼそっと言った。私はぐうの音も出なかった。
「そういう時のために人がいるんじゃないですか。……たぶん」と彼女は言い、デスクに戻った。やはり、この事務所の本当の探偵は彼女なのかもしれない。
ハートの瑕疵には誰が責任を負うのか
登記簿に記されるのは、法的な正しさだけだ。だが、その裏には人の感情や欲望、後悔がこびりついている。
瑕疵担保責任――それは建物だけに適用される言葉じゃないのかもしれない。心に空いたそのひびを、誰かが補える日が来るのだろうか。私は今日もファイルを閉じ、ひとつため息をついた。