午前九時の訪問者
赤いコートの女
その日、事務所の扉が開いた音でコーヒーを口に含んだまま振り返ると、そこにいたのは真紅のコートに身を包んだ女だった。肌寒い三月の朝、見た目には不釣り合いなほど薄着で、目だけがやけに鋭く光っていた。彼女は「遺言の件で相談があるの」とだけ言って、封筒を机に置いた。
封筒は分厚く、中には戸籍謄本と不動産の資料、それに一枚の委任状が入っていた。差出人は亡くなった資産家・小谷重蔵。その名に聞き覚えがあった。地元ではちょっとした名士だった男だ。
「本人はもう亡くなっています。ただ、これには、、、特別な事情があって」と女は視線を落とした。その声は震えていた。
奇妙な依頼と一枚の紙
依頼は「相続登記の代理」。だがその委任状には奇妙な点がいくつもあった。まず、日付が亡くなった日より一週間も後になっている。署名もかすれており、印影も不鮮明。遺言書は公正証書ではなく自筆証書だが、日付の部分が消えかけていた。
「これは、、、相当きな臭いですね」とボソリと呟いた途端、奥の席からサトウさんが無言で立ち上がってきた。彼女の目は、まるで鑑識課のベテランのように細部を正確に追っていた。
「この委任状、紙の端に炭のような跡があります。たぶん一度燃やされたものですよ。で、あえて残した」サトウさんは感情を一切挟まずに言い放つ。まるで磯野家の中で波平のカツオへの説教のような安定感で。
委任状の影
署名が語らないもの
誰がこの委任状を書かせ、そして誰の手によって処理されたのか。それを考えると、背筋がうすら寒くなった。もしこれが偽造だったとしたら、登記が終わってからでは取り返しがつかない。
「こんな危ない橋、普通の依頼者は渡らない。よっぽどの事情があるか、よっぽどのウソをついてるかだな」そうつぶやいた俺に、サトウさんが一言。
「今回は“ウソ”のほうだと思います。たぶん、死後に誰かが書かせたんでしょうね。この委任状」その冷徹な分析に、俺は口を噤むしかなかった。
サトウさんの冷たい指摘
「ちなみにこの印鑑、重蔵さんが生前使っていたものとは違います。筆跡も違う。でも、そっくりなんですよね」彼女の言葉に、俺は思わず笑った。
「つまり、誰かがそれらしく偽造したってことか。まったく、ドラマで見たような話だな」俺は苦笑いしながらも、事態の深刻さに気づき始めていた。
どこかで聞いたことのある展開。キャッツアイのように現れる女、ルパン三世のように消える証拠。俺はひそかに心の中で「やれやれ、、、また厄介ごとか」とため息をついていた。
白い手袋の持ち主
旧家の応接間にて
訪れたのは小谷家の旧邸。木造二階建ての古びた家は、今にも崩れそうだった。迎え入れたのは、亡き重蔵の息子・達夫。彼の話は要領を得ず、妙に饒舌だった。
「父の意思ですから。委任状の件も、あらかじめ準備していたはずです」言いながら差し出してきたのは、真新しい白い手袋だった。
「遺品の中にあったものでして。ご参考までに」その言葉が脳裏をよぎる。なぜこのタイミングで手袋を出す? 何か隠している。俺の中で警鐘が鳴った。
仏壇と金庫と秘密の鍵
仏壇の裏には小さな金庫があった。開けてみると、そこにはもう一枚の委任状が。しかも日付は正しい。印影も整っている。これは、、、本物だ。
つまり、俺の手元にあったものは偽物で、本物はずっと隠されていた。理由はただひとつ。相続内容を都合のいいように変えるためだ。犯人は、この家にいる。
「これは偽造です。俺が司法書士として断言できます」そう口にしたとき、達夫は無言で立ち上がり、奥の部屋に姿を消した。
やれやれ、、、この仕事もまた泥だらけだ
手袋と指紋とおはぎの謎
その夜、警察が出動した。白い手袋からはインクの跡と指紋が検出された。委任状の偽造に使われた道具だった。しかもそのインク、遺言書の文字と一致した。
「もう一つ、おかしな点がありました」サトウさんが出したのは、仏壇に供えられたおはぎ。「これ、今日作ったばかりのものでした。つまり、誰かが今日もここにいた」
犯人は、重蔵の息子ではなく、介護を担当していた元家政婦の女だった。彼女が赤いコートの女だった。彼女は遺言に自分の名がないことを知り、偽造を企てたのだった。
委任状は誰の手に
証拠の行方と燃やされた書類
本物の委任状は俺の手に。偽物は警察へ。証拠はすべて揃っていた。女は黙秘を続けたが、燃やしかけた紙片のインクからすべてが割れた。
「燃やせば消えると思っていたんでしょうね。でもね、インクって、案外しぶといんですよ」俺がそう呟くと、サトウさんはうんざりした顔で「中学理科で習うレベルですね」と切り返してきた。
やれやれ、、、またひとつ、心の疲れる案件だった。
真犯人は優しすぎた男
ちなみに、偽造に関わっていたのはもう一人いた。重蔵の息子・達夫。女の過去に情があり、黙認していた。彼の署名も、偽物の委任状に含まれていた。
「親父の意思を尊重したい。でも、彼女を見捨てることもできなかった」その言葉に、法と情の間で揺れる男の苦悩を見た。俺はただ「司法書士にできるのは、真実を記録することだけです」と答えた。
誰の手にも渡らなかった委任状。それが一番の救いだったのかもしれない。
最後に残った一枚の紙
事務所に戻った静かな午後
事件が終わり、事務所に戻った午後。書類の山がいつもよりも静かに見えた。俺は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「この街で、今日もまた一枚の紙が運命を変えた」そうつぶやきながら、書類整理に戻ろうとした瞬間、デスクの上にひときわ目立つ白い封筒があった。
差出人は、、、不明。だが、あの赤い口紅の印が残っていた。ゾクリと背筋が寒くなる。
サトウさんの一言が刺さる
「まさか、まだ続きがあるんじゃないでしょうね」そう言いながら、サトウさんは俺のコーヒーを取り上げて、冷めたそれを電子レンジに向かって歩き出した。
やれやれ、、、まだまだ休ませてもらえそうにない。
でもまあ、そういうのも悪くない。俺は、少しだけ口元を緩めた。