朝一番の違和感
その朝は、いつもより5分早く目が覚めた。寝癖のまま湯を沸かし、インスタントの味噌汁を啜る。カレンダーを見ながら今日の予定を思い出すが、なにか引っかかる。
事務所に着くと、机の上に昨日処理したはずの書類が戻されていた。付箋が貼ってあり、「押印が抜けています」とサトウさんの冷たい字で書かれていた。やれやれ、、、またか。
押印が抜けた登記書類
確かに契約書の最後の欄、依頼人の押印が抜けていた。しかも、その欄にわずかに指の脂が残っている。押そうとして押さなかったか、誰かがわざと抜かしたか。嫌な予感がする。
依頼人は昨日、土地の名義変更のために訪れた初老の男性。丁寧で控えめな口調だったが、妙に書類を急いでいたのを思い出す。
依頼人が音信不通に
確認のため電話をかけるも、「この番号は現在使われておりません」と機械音が返る。メールもエラー、住所は空き家だった。登記に必要な書類はすでに集まっていたのに、なぜ肝心の押印を忘れたのか。
「普通じゃないですね」とサトウさんが言った。たしかに、これはただの押し忘れではない。
消えた依頼人の足取り
市役所にも足を運んだが、その男性の住民票は一週間前に移転済みで、転出先は「不明」と記載されていた。完璧に痕跡を消している。
だが、司法書士は簡単には引かない。少なくとも自分の事務所から提出される登記書類が犯罪に利用されるわけにはいかない。
急な連絡キャンセルの謎
唯一の手がかりは、依頼人が書類受け渡しに指定した翌日の午後三時。だがその約束は「都合が悪くなった」と直前にキャンセルされていた。キャンセルメールには、彼らしからぬくだけた言葉遣いがあった。
「あれ、誰かが書いた可能性もあるな」とサトウさんが呟いた。直感が当たっていれば、依頼人はすでに何者かの手に落ちている。
最後の訪問先は山間の古家
書類に記された「送付先」として残された住所は、山間の外れにある一軒家だった。車で向かうと、そこは昔ながらの茅葺屋根の家。まるでサザエさんの磯野家が引き伸ばされたような、不自然な静けさが漂っていた。
ポストには新聞もチラシもなかったが、窓辺のカーテンが少しだけ揺れていた。
元野球部の記憶が甦る
玄関の鍵は閉まっていたが、裏口の引き戸は施錠されていなかった。中に入ると、テレビが小さな音で流れていた。まるで誰かがさっきまでそこにいたような空気。
そして、テーブルの上に置かれた書類に目が止まった。署名と捺印がある。が、その印影に違和感があった。
フォームと筆跡の違和感
「これ、本人じゃないな」と声に出した。元野球部の頃、試合中にスコアを記録していた経験が思い出された。文字の癖、押印の力の入り方、指の使い方。違う。
つまり、この押印は誰かが偽装したもの。しかも、それを提出させるための「何か」が背後にある。
やれやれ、、、癖で見抜いた小さな矛盾
テーブルには缶コーヒーとカップ麺のゴミがあった。ふと、その缶の底に書かれた「賞味期限」に目が止まった。3日前。つまり、ここにいたのはつい最近だ。
居留守か、監禁か。どちらにしても、今すぐ警察に連絡するべきだった。
サトウさんの冷静な推理
事務所に戻ると、サトウさんは監視カメラの記録を精査していた。依頼人が郵送を頼んだとされる郵便局での映像を引き出していた。
「これです」と差し出された画面には、依頼人ではない若い男が封筒を差し出す様子が映っていた。しかもサングラスにマスク。やましさ全開だった。
取引履歴と郵送記録の照合
さらに調べると、銀行口座の動きから、土地の売却代金が第三者口座へと移動していた。依頼人は何者かに土地を売らされていたのだ。
「犯人は名義変更を終える前に姿を消そうとしてた。押印を故意に抜いたのは、提出を止めるためかも」とサトウさんが分析する。
郵便局の監視カメラに映った人物
映像は決定的だった。警察に連絡し、身元の割り出しを依頼。数日後、その男は偽装誘拐の疑いで逮捕された。依頼人は無事に保護され、計画の全貌が明らかになった。
「まさか、登記の押印ひとつで事件が崩れるとは思ってなかったろうな」とサトウさんが冷たく笑った。
誘拐の兆候と虚偽の届け出
犯人は依頼人の親戚を装い、委任状と虚偽の証明書を使って登記変更を狙っていた。本人は軽い脅迫で別荘に軟禁されていたに過ぎなかったが、紙一枚で人生が変わるところだった。
司法書士の仕事が命を救ったと言っても過言ではない、、、などとカッコよくまとめたいが、たぶん誰も気づかない。
登記名義変更を急ぐ謎の代理人
書類には仮の押印があり、それがきっかけで事件は止まった。だが、それはたまたまシンドウがうっかり押印を見逃したからであり、完全な偶然でもあった。
「うっかりもたまには役立つんですね」と言ったサトウさんの声が、今日も心に刺さった。
まさかの偽装誘拐計画
計画はすでにかなりの段階まで進行していた。あとは名義が変わるだけ。司法書士がその書類に気づかなければ、全て終わっていた。
「やれやれ、、、もう少し野球部で書類管理でも学んでおくべきだったか」と天井を見ながら呟いた。
解決と一抹の後味
事件は解決した。依頼人も無事だった。サトウさんも少しだけ笑った気がした。だが、それでも疲れは抜けない。世の中は書類よりずっとややこしい。
帰り道、コンビニで買った缶ビールをぶら下げながら、夜風に当たる。今日もまた、ギリギリで正義が勝ったのかもしれない。
サトウさんのひと言が決め手に
「この仕事、意外と刑事より命を守るかもですね」
サトウさんがぼそっと言った言葉に、少しだけ救われた。司法書士という肩書きも、たまには悪くないと思えた。
押印忘れが照らした闇
次こそ、完璧な書類を仕上げてやる。そう心に誓うが、帰って机に置いた今日の書類にも、押印が抜けていた。
やれやれ、、、。