朝の電話と見知らぬ依頼人
土曜の朝、事務所の電話が鳴った。出ると、名乗らぬ男の声がかすれている。「ちょっとだけでいいんです。契約書を見てほしい」。その言い方がどうにも妙だった。素性も話さず、内容もぼやけている。だが、こういう曖昧な依頼ほど、なぜか厄介な事件に繋がるのが常だ。
「やれやれ、、、また週末返上か」と呟きながらも、僕は手帳に名前のない予定を一つ書き加えた。
名乗らない相談者の不自然さ
午前十時、事務所に現れたその男は、黒縁眼鏡にスーツ姿だが、どこか不釣り合いな緊張を漂わせていた。「これが……その契約書です」と震える手で差し出されたのは、住宅ローンの連帯債務契約書だった。
ところが奇妙なことに、本人の欄に彼の名前はない。あるのは兄とされる別人の名前、そして連帯債務者として誰かの名前が上書きされていた。
連帯債務という言葉の違和感
「僕が保証人なんです」と彼は言ったが、それは明確な誤解だった。これは保証ではなく、れっきとした連帯債務。つまり、債務者と同じ責任を負う契約。保証人が一歩後ろなら、連帯債務者は横並びで崖っぷちだ。
サトウさんが静かに呟いた。「これ、保証人と思って署名させたんじゃないですか?説明もせずに」。僕の背中に冷たい汗が走る。これが事実なら、悪質な詐欺まがいだ。
貸金契約書と謎の署名
貸金契約書をめくっていくと、複写式の最下部に、明らかに別人の筆跡で名前が書かれていた。しかも日付が不自然に未来の日付になっている。そこだけボールペンのインクが新しい。
「これ、後から書かれてる可能性ありますね」とサトウさん。いつも通り冷静だが、彼女の目は鋭く光っていた。僕は頷いた。これは、誰かが連帯債務者の欄を改ざんしたのかもしれない。
一枚目にない名前
驚いたのは、契約書の表紙に記載された「関係者一覧」に、彼の名前が一切ないことだった。つまり正式な記録としては、彼は存在していない。
「それって……自分だけ支払義務がある可能性があるってことですか?」彼の顔が青ざめる。いやな予感が的中していく。
消された保証人の行方
念のため、過去に登記に関与した書類を引っ張り出すと、保証人として別の人物が記されていた。しかし、なぜかその欄が二重線で抹消され、訂正印が押されている。
そして、その抹消された人物の名義で現在差し押さえが進行中だった。もはや偶然ではない。何者かが意図的に名義を塗り替えたのだ。
サトウさんの突き刺すような指摘
「つまり彼は、書類上“連帯債務者として存在している”ことになってる。でも法的にはグレー」。サトウさんの分析は、まるで警視庁捜査一課の刑事のようだ。
「どうして自分の名前が入ってるのか分からない」と繰り返す彼に、サトウさんが一言。「じゃあ、そのペンを握ったのは誰でしょうね」。
筆跡と日付の罠
僕は思い出した。かつて扱った遺言書偽造の事件で、筆跡鑑定と日付ずらしが使われていたことを。今回も同じ手口のにおいがする。
「筆跡、見てみましょうか」とサトウさんがタブレットを手に取り、サンプルとの照合を始めた。
保証人欄の空白が語るもの
さらに掘り下げていくと、契約時に使用された別紙の控えに、保証人欄が未記載のままコピーされていたものが見つかった。つまり、正式な契約時にはそこは空欄だったのだ。
「やっぱり後から書かれた線が強いですね」とサトウさん。「でも本人が知らぬままって、まさに“知らないうちに共犯にされた”状態です」。
元野球部の勘が動き出す
僕の中で何かが閃いた。中学時代、野球部でサイン盗みを疑われたことがある。けれど、キャッチャーミットのわずかなズレで盗塁の予兆を察知できたことがあった。
あの時の感覚と似ている。小さな違和感が、全体のズレを証明していた。
契約当日のアリバイ
「契約した日って、どこにいましたか?」と訊くと、「その日は夜勤明けで、ずっと病院にいました」と彼。確認のため、病院の勤務表を見せてもらう。
そこには確かに、彼が契約日に現場から離れられなかった証拠があった。
コンビニの防犯カメラという伏兵
そして決定的だったのは、契約書が提出されたという某コンビニのコピー機の記録。そこには“兄”とされる人物が、彼の身分証のコピーを使って何かを印刷している映像が残っていた。
「自分で持っていった覚えはない」と言う彼の証言と矛盾する。この兄が、鍵を使って身分証を盗み、勝手に連帯債務者として仕立て上げたのだ。
依頼人の正体と真の目的
真相が明らかになるにつれ、彼の手が震え出した。「兄は……昔から僕の名前を勝手に使う癖があったんです」。家族という名の幻想。それが重荷になる瞬間。
「サザエさん家の波平だったら怒鳴ってますね」と僕が言うと、サトウさんが「現実はマスオさんが離婚届を出されるくらいですね」と返した。
親族の影に潜む借金劇場
借金、保証、連帯。法律で結ばれるのは、血縁よりも重い関係だ。彼はすでに、その事実に苦しめられていた。
だが、この件は民事上でも争える。被害者は彼だ。僕はそれを告げると、彼の肩の力がわずかに抜けた。
泣きながら話す兄と妹
後日、兄が謝罪に訪れた。「家を守りたかった。アイツには頼れた」。しかしそれは、勝手な言い分だった。妹も同席しており、泣きながら「私が気づいて止めるべきだった」と言った。
家族が壊れたのは借金のせいではない。信頼を裏切る行動が、取り返しのつかない傷を残すのだ。
やれやれ、、、真相は書類の端にあった
契約書の端には、小さく修正された跡が残っていた。「ここ、ほんとに雑ですね」とサトウさんが指さす。「連帯と連名を間違えてもいいけど、線引きはしておかないと」。
「やれやれ、、、この仕事、やっぱり体力勝負だな」と僕は椅子に深く座り直した。
連帯と連名の違いが分けた運命
もし彼が気づかずにいたら、支払い責任をすべて負っていたかもしれない。紙一枚の違いが、人生を大きく変える。まるで名探偵コナンのトリックのように、見過ごしたら終わりだった。
今回はギリギリセーフ。だが世の中の多くはアウトのままだ。
司法書士としての線引き
僕たち司法書士の役目は、そういう線をはっきり引くことだ。誰が何を背負うのか、法的な輪郭を示すためにいるのだ。
そしてそれが、ひとつの家族の崩壊を防ぐ最後の砦にもなる。
サトウさんの一言と帰り道
事務所を出ると、夕陽が傾いていた。サトウさんが鞄を肩にかけながら言った。「連帯って、結婚より重たいんじゃないですかね」。
「結婚したことないけどな」と僕が苦笑すると、「だから余計に重く感じるんですよ」と、いつもの塩対応が返ってきた。
「ちゃんと見てれば分かることですよ」
「僕だったら多分気づけなかったよ」と言うと、サトウさんは足を止めてこう言った。「ちゃんと見てれば分かることですよ」。それは、彼女なりの優しさなのだろう。
その言葉を胸に、僕はそっとため息をついた。
冷たいけど温かい塩対応
帰り道、彼女と別れて一人で歩きながら、改めて思った。やれやれ、、、今日も結局、彼女に助けられたな。塩対応の中にほんの少しだけ感じる温度が、妙にありがたく沁みた。
司法書士としての一日が終わる。だが明日もまた、何かが始まる気がしてならなかった。