記名なき申請者
午後一時の訪問者
司法書士事務所のドアが開いたのは、昼食を終えてウトウトしかけた頃だった。
姿勢の良い男性が、やや急いだ様子で受付に近づいてきた。
「これ、お願いします」と無言で差し出された封筒に、妙な違和感を覚えた。
机の上の謎の登記申請書
封筒の中には登記申請書が入っていた。手続き自体は珍しくない内容だったが、あるべきものがなかった。
「申請者の名前が、ないですね……?」と口に出すと、サトウさんが眉一つ動かさずにパソコンを叩き続けた。
「またそういうの持ち込まれるんですね、シンドウ先生」と塩対応が炸裂した。
「申請者欄」が空欄だった理由
記名捺印の欄が空白のまま。これでは申請そのものが無効だ。
ただ、他の部分の書き方は妙に整っており、まるで誰かが意図的に空欄を残したようにも見えた。
書類の下部には「至急処理希望」の朱書き。誰が何を急いでいるのか。
サトウさんの冷静な推理
「先生、これ……筆跡が複数ですね」
サトウさんは書類をスキャナにかけ、拡大画面を指さした。確かに、住所欄と内容欄では筆跡が違っている。
「代筆された可能性が高いです。でも、誰のために?」彼女の声に、ほんの少し探偵アニメ的な緊張感が宿る。
古い登記簿の記録と一致
事務所に保管してある旧登記簿の控えと照らし合わせると、申請書の物件と一致する記録が出てきた。
だがその名義人は、昨年に亡くなった人物だった。
「おかしいな。名義人が死亡しているのに、なぜいま登記の変更が?」疑問は深まるばかり。
一年前に死亡した男の名前
故人の名は「奥村義信」。近くの市営住宅で孤独死として処理された記録が残っていた。
ただ、その財産については誰も引き継いでおらず、登記は宙に浮いたままだった。
「ということは、今出された申請は……誰かが奥村の名義を利用しようとしている?」とサトウさんが呟いた。
登記官との緊迫したやりとり
僕は登記所に連絡を入れ、担当官と内容を確認することにした。
「正式な申請者の記名がないものは受理できません」と当然の回答。
ただ、その声の端に、どこかしら「またか」というような疲れた色が滲んでいた。
遺産か詐欺かそれとも遺恨か
単なる記載ミスか、それとも何かの工作か。
「これ、奥村の隣に住んでた男……確か“前科あり”だったような」と古い裁判記録が見つかる。
どうやら奥村の死亡を利用し、不正に登記を進めようとした線が浮かび上がってきた。
思わぬ証拠を見落としていた
書類の裏に、微かに折り目と朱肉の跡がついていた。
それはまるで、印鑑を押そうとしてためらったか、別の誰かが押すのを止めたようだった。
「やれやれ、、、詐欺師にしては手元が甘いな」とつぶやき、ようやく全体像が見えてきた。
書類に残された唯一の痕跡
朱肉の跡は、指紋認証で照合可能なレベルの濃さだった。
警察に情報提供を行い、司法書士としての職責を超えた証拠協力を求める。
「先生、たまには役に立ちましたね」とサトウさんの皮肉も今日は少しだけ柔らかかった。
野球部時代の記憶がヒントに
昔、監督が言っていた。「サインのないプレーは無効だ。責任の所在がわからんからな」
記名も捺印もない申請は、まさにそんな無責任なプレーだ。
今になって、野球部での失敗がこんな形で役に立つとは思わなかった。
本物の申請者が現れた
翌日、やつれた男が事務所を訪れた。「あの書類、俺が書かせたんです」
前科者の前田と名乗る男は、奥村に借金があり、その物件を勝手に売却しようとしていた。
だが途中で怖くなり、署名だけを省いて提出させたという。
動機と共犯の構図が見えた瞬間
共犯は、奥村の遠縁にあたるという女性で、申請書を持ち込んだ人物だった。
全てがつながった時、書類が語らなかった物語がようやく浮かび上がった。
「あのとき印鑑を押さなかったことが、かえって決め手になったな」と僕は独りごちた。
サトウさんの無言のガッツポーズ
報告書を出し終えた瞬間、サトウさんが珍しく軽く拳を握って見せた。
「たまには悪くない事件でしたね」
それが彼女なりの称賛なのだろう。僕は少しだけうれしかった。
僕らはまた静かな日常に戻る
案件が解決しても、山積する登記の処理が僕を待っている。
机の隅に、昨日のおにぎりの包装がそのままだ。
「やれやれ、、、これじゃあ誰も寄ってこないわけだ」とぼやきながら、僕はまた次の書類に目を通した。