書類棚の奥の微笑み

書類棚の奥の微笑み

書類棚の奥の微笑み

それは、梅雨のじめじめとした朝だった。扇風機の風は湿気をかき回すばかりで、書類の紙もふにゃりと曲がっていた。机の上に積み重ねたファイルの山にうんざりしながら、俺は気づいた。何かが、ほんのわずかにおかしい。

午前九時の違和感

書類の順番が違う気がした

いつものように書類棚を整理していた時だった。固定資産の登記資料が、一件だけ逆順に綴じられている。サトウさんがそんなミスをするとは思えない。まるで誰かが、わざとその一件だけを取り出して戻したような、そんな気持ち悪さがあった。

サトウさんの冷たいひとこと

「それ、昨日の夕方、誰か触ってましたよ」 サトウさんはモニターから目を離さずに、平然とそう言った。まるで「あなたがやったんでしょ?」という疑いが込められているように聞こえて、俺は思わずむせた。いや待て、それってつまり――。

消えた登記識別情報

封筒の中身が空っぽだった

問題の登記案件の封筒を開けてみると、中には必要な識別情報通知が入っていなかった。封筒には確かに「在中」の朱印。でも中身は、空。これがなければ手続きはできない。書類の山から一枚の重要書類が消える――それは、この業界で言えば殺人現場のナイフがなくなるくらいの事件だ。

やれやれ、、、また面倒なことに

俺は眉間を押さえてため息をついた。誰かのいたずらか、それとも依頼人のミスか。こんな時、怪盗キッドなら空中に紙吹雪でも撒いて消えるんだろうが、こっちは地味に役所と電話合戦だ。やれやれ、、、今日も胃が痛い。

奇妙な依頼人の足取り

はじめての訪問者なのに

封筒の提出者は「ハセガワ」と名乗る中年の男。確かに昨日来所したが、書類棚にアクセスできる位置にはいなかったはずだ。だが、サトウさんの監視眼は違った。「書棚の前に立ってました。30秒ほど」。その30秒で何ができる? いや、それで充分だ。

依頼書に残された違和感

依頼書に書かれた住所、筆跡、そして印鑑――どれも完璧。しかし完璧すぎる。それが逆に、不気味だ。押印の位置が妙にぴったり揃っているあたり、まるでフォトショップで加工したみたいな気味悪さがある。俺の第六感がチリチリと警報を鳴らしていた。

サトウさんの推理が動き出す

論理と観察の冷静な刃

「この封筒、再封印されてますね」 サトウさんは封の角を指差した。微妙に浮いた糊跡、指の脂。俺にはまったく見えなかった証拠を、彼女は見抜いていた。「たぶん、元の書類を抜いて、偽の中身にすり替えて戻したんです」。簡単に言ってくれるが、それが事実なら立派な偽造だ。

書類棚の“重なり”に潜む罠

さらに彼女は、棚のファイル順に細工があったことも指摘した。故意にずらされた一冊――それに気づかないよう仕込まれたトラップだ。「まるで、子供がサザエさんのビデオを録画し忘れた兄に仕返しするような仕込みですね」 例えが妙だが、妙に的を射ていて悔しい。

過去の書類が語る現在

10年前の謄本にある同じ名前

棚の奥、埃をかぶった古いファイル。そこに、同じ名前の「ハセガワ」の記録があった。ただし、この人物はすでに5年前に亡くなっている。つまり、今回の依頼人は――死人の名を使った偽者、ということになる。

ファイルの背表紙に残る微笑

その古いファイルの背には、誰かの書いた「ニコニコマーク」がボールペンで残されていた。妙に気味が悪い。まるで、自分の正体に気づいてくれという合図のように。その笑顔は、どこか「挑発」にも見えた。

シンドウ、動く

かつての野球部魂が蘇る

たかが書類、されど書類。偽名で登記を進められれば、不正な相続や登記の乗っ取りに使える。黙って見過ごせるような話じゃない。俺は、かつてセンター守備で動体視力を鍛えた勘を信じ、相手の矛盾を見逃さなかった。

証拠の紙一枚を追って

偽造された依頼書のコピーを調べ直し、細部のズレをチェック。OCRソフトでも一致しない一文字――「高」と「髙」の違いを突き止めた。犯人のミス。それが命取りになる。「登記識別情報」は、他人になりすますには重すぎた。

金曜日の午前11時の勝負

依頼人との再会

再訪したハセガワ(偽)は、少しも動揺せずに笑っていた。「またお世話になります」。その笑顔が、棚の背表紙のニコニコマークと重なった。だが、こっちはもう手札を揃えている。

言い逃れできぬ矛盾の言葉

「以前、別件でお世話になったことがあると聞きましたが」 そう俺が切り出すと、男は「ああ、たしかに」と答えた。が、その人物は“故人”だ。その瞬間、男の表情が一瞬固まった。あとは警察と法務局に任せればいい。

暴かれた偽装相続の手口

書類棚に隠された戸籍の真実

真相はこうだ。10年前の依頼人の戸籍を悪用し、相続人を偽装しようとした。法の網を潜り抜けようとしたが、棚の「順番」を甘く見たのが命取り。書類に囲まれたこの職場こそ、真実を暴く現場だったのだ。

“誰か”の手によって改ざんされた

幸い、事件は未然に防がれた。登記識別情報は無事に取り戻され、封筒も証拠となった。偽者は逮捕され、また一つ、事務所に平穏が戻る。だが俺は知っている。またいつか、次の「仕込み」がやってくると。

サトウさんの小さな溜息

「もっと早く気づけましたよね」

サトウさんは、やや呆れたように言った。まるで探偵マンガの助手が、鈍感な名探偵に言うような台詞だ。俺としては、頑張ったつもりなんだが。

「シンドウさん、ファイル順は守ってください」

「次に狂気が潜んでるのは、たぶん法定相続情報の棚ですから」。 塩対応ながら的確な彼女の助言は、今日も俺の背筋を正してくれる。

書類棚は今日も静かに

次の狂気が眠る場所

書類棚は何も語らない。けれど、確かにその奥には、時折“誰か”の痕跡が残る。静かに眠る狂気。ページの間に挟まれた悪意。それを読み解くのが、俺たち司法書士の仕事かもしれない。

そして俺は、また紙の山に埋もれていく

「やれやれ、、、」 独り言を呟きながら、俺はまた、次の事件の書類をめくり始めた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓