他人の人生は見届けられるのに自分の未来は手探り

他人の人生は見届けられるのに自分の未来は手探り

他人の人生は見届けられるのに自分の未来は手探り

戸籍の山を登っても自分の人生は平地のまま

何千枚もの戸籍を読み込んできた。明治に生まれたご先祖の記録から、令和の時代に続くつながりまで。職業柄、他人の家族の歴史を追うのは日常だ。依頼人の不安を解消するために、確実にたどる。それは職人のような気持ちにも近い。だがふと手を止めると、自分のことは何一つ記録されていないような感覚に襲われる。家系図にはならない僕の人生は、どこへ向かっているのか。そう考えると、他人の戸籍を扱う手が妙に重く感じられる。

依頼人のルーツはたどれても自分の足元はぼやけている

「祖父の出生地を知りたいんです」──そういう相談は多い。戸籍を取り寄せ、読み解く作業に迷いはない。でも、じゃあ自分はどこに立っているのかと問われたら、答えに詰まる。司法書士として“知っているフリ”は得意になった。でも本当は、自分の居場所すら定まっていない。地元で開業したはいいが、目の前の仕事を片付けることに追われて、将来設計なんて絵に描いた餅だ。

知らない親戚の人生に詳しくなってしまう奇妙な日常

依頼を通して見えてくるのは、依頼人すら知らない「家族の裏側」だ。戦時中に亡くなった伯父の話、籍だけ残っている疎遠な人物、隠されていた離婚歴。まるで探偵のような仕事だが、どこか空しい。そこに情熱を注いでいる自分が、他人の人生の解像度ばかり高めて、自分自身はどんどんピンボケになっていく。知っているのに、知らない。そんな矛盾が日々の中にある。

戸籍謄本に記された名前と現実とのギャップ

戸籍に載っている名前や関係性はあくまで“形式”だ。実際には関係が断絶していたり、本人すら記憶していない兄弟がいたりする。なのに、制度上は「この人はこの人と親子です」と断言される。不思議な話だ。でも、逆に自分の人生にはそういう断言がない。「司法書士です」「独身です」「忙しいです」──それだけ。肩書きはあっても意味のある関係性が薄い。戸籍には名前があっても、自分には意味がないように思えてしまう。

印鑑証明は取れるのに自分の自信は証明できない

市役所に行けば簡単に印鑑証明が取れる。依頼人の登記に必要な書類もスムーズに揃う。仕事は順調に見える。だが「あなたは自分に自信がありますか」と問われたら、それには証明の手続きがない。周囲からは「独立しててすごいですね」と言われることもある。でも、心の中では毎日が綱渡り。余裕なんてどこにもない。ただ、倒れずに済んでいるだけだ。

書類一枚で済むことがなぜ自分ではできないのか

仕事では人の人生に関わる重大な申請を、淡々と進められる。不動産の名義変更、遺言の執行、成年後見。書類を揃えれば完了する。ところが、自分の人生に関する決断はそうはいかない。「結婚するか」「事務所を拡大するか」──どれも迷い続けたまま。結局、何も提出できないまま年を重ねてしまった。誰かに「印鑑持ってきてください」と言われる日を、どこかで待っている。

役所での手続きはスムーズでも心の手続きは止まったまま

何年も通い慣れた法務局では、書類の不備を即座に見抜ける。処理能力は年々上がっている。だけど、心の処理はどうにもならない。とくに休日の夜など、ふと不安に包まれる。将来のことを考えたとき、何を提出すればいいのかわからなくなる。申請用紙はないし、受付印も押してくれない。そんな不安を笑い飛ばせる相手もいない。事務員には気を使わせたくないし、愚痴は机の引き出しに仕舞ってある。

仕事ができると言われても虚しさが残る

「先生のおかげで助かりました」と言われることもある。うれしい。でも、どこか空っぽな気持ちも残る。たとえるなら、甲子園を目指していた高校球児が、誰にも見られずにノックを打ち続けているような感覚。誰かのために全力を尽くしても、自分の試合はどこにもない。仕事が評価されることと、自分の人生が満たされることは、まったく別物だ。

自分の未来には法務局の受付印が押せない

法務局では「受付印」がすべてだ。提出された書類が正式に受理されたことの証明。それがあって初めて、登記の手続きが動き出す。でも、自分の未来にはその印が押せない。何を準備すれば未来に進めるのか、誰に提出すればいいのか、それすらわからない。司法書士としての経験があっても、自分自身の人生の取り扱い説明書はどこにもない。

将来の予定より明日の昼飯の方がまだ現実的

「10年後どうなっていたいですか?」という質問が苦手だ。せいぜい考えられるのは、明日の昼に何を食べるかくらい。目の前の案件を処理して、少しだけホッとする。そんな日々の繰り返し。計画なんて立てても、その通りにいかないことばかり経験してきた。だからこそ、未来を考えるのが怖いのかもしれない。登記簿には記載されない「心の不動産」は、どこにも所有権がない。

事務員には何も言えず心の中だけが混雑していく

一人だけ雇っている事務員には、余計な心配をかけたくない。だから、忙しくても弱音は吐かないようにしている。でも、心の中は雑多な書類の山のようだ。過去の後悔、将来への不安、人とのすれ違い──片付けられない感情が溜まり続ける。事務所は整理整頓していても、自分の内側はぐちゃぐちゃだ。たまに「このまま誰にも見つからずに終わるのかな」と思ってしまう瞬間がある。

未来の自分に登記すべき権利はあるのか

「権利を登記する」という行為は、確かな存在の証明でもある。ならば、未来の自分にもその“登記”は可能なのか。権利があるのか。不安と虚しさの中で、ときどき考える。誰かが保証してくれる未来なんてない。でも、それでも前に進まないといけない。証明されない人生にも、意味があるのかもしれない。そう思える日が、少しずつでも増えてくれることを願っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。