登記簿は見ていた

登記簿は見ていた

はじまりは古びた公団住宅だった

その朝、事務所の扉を開けると同時に電話が鳴った。低く、重く、湿気を帯びた声の女性が、ある公団住宅の名義について相談したいと言ってきた。

「どうしても気になるんです…私の名義じゃないって、あの家」
ぼそりとそう言った彼女の声は、まるで何かに怯えているようだった。

気が進まなかったが、「なんか嫌な予感がするな」とぼやきながら、俺は現地調査を決めた。

依頼人の怯えた声と謎の登記簿

彼女は一枚の登記事項証明書を持ってきた。そこには彼女ではない、聞いたこともない名前が「所有者」として記載されていた。

「私、20年前に母からもらったんです。この家。でも…」

登記簿には、その母親の名も、彼女自身の名も、どこにも載っていなかった。

「誰かが勝手に…」というつぶやき

彼女の目が宙を泳いだ。
「誰かが勝手に書き換えたんだと思うんです…私のいない間に…」

名義はそんな簡単に変えられるものじゃない。だが、事実としてそこに他人の名がある。

俺は静かに、重くなった胃をなだめながら、現地へ向かうことにした。

現地調査と不穏な空気

住宅は古びた団地の3階。エレベーターはない。
曇天の空から湿った風が吹き抜け、階段の錆びた手すりがギィと鳴いた。

玄関前には生活感のない表札。いや、そもそも名前が消されていた。

ドアには鍵がかかっておらず、扉を少し押すと、きしむ音とともにわずかに開いた。

雨の中の玄関前と消された表札

表札には、前にあったはずの文字を引っ掻いたような跡があった。誰かが故意に削ったのだろう。

「ここにずっと住んでいた」と言っていた依頼人の話と、目の前の現実に食い違いを感じる。

床には古びた新聞紙と、黄ばんだ封筒がひとつ。宛名は…知らない名前だった。

鍵はあるのに住んでいない家

中に入ると、生活の気配はまったくなかった。冷蔵庫の中も空っぽ。
唯一残されていたのは、古い契約書と名刺の束。

そして、その契約書には例の名前——登記簿上の所有者名が記載されていた。

その名刺に目をやったサトウさんが、ふっと小さく眉を動かした。

登記簿の中に見つけた異変

帰所後、俺は法務局で取得した閉鎖登記簿と比較を始めた。通常ではありえない記録の抜け落ちがそこにはあった。

あるはずの相続登記が飛ばされ、いきなり別人へ所有権移転されている。

どう考えても、それは「合法」に見せかけた「違法」な手口だった。

所有者の履歴に混じる不自然な一文

ひとつだけ、不自然な記載があった。「平成二十年度 遺贈による取得」——しかし、遺言書の写しはどこにもない。

遺贈登記であれば、公正証書遺言か、検認済みの自筆証書が添付されるはずだ。

つまりこの登記、偽装されている可能性が高い。

地元銀行との不気味な接点

さらに調べを進めると、その「登記上の所有者」がかつて地元信用金庫の職員だったことが判明。

偶然か、それとも意図的か。ここまでくると、俺の得意分野とは少しズレてくる。

とはいえ、ここで引くのも癪だった。俺は再度、サトウさんを呼んだ。

サトウさんの冷静すぎる分析

「この件、十中八九、親族内の名義借りですね」
彼女は、PC画面を見つめながら言い放った。

「あの名義人、多重債務者だったみたいです」

やれやれ、、、また妙な方向に話が転がってきた。

「これ、意図的な名義変更ですね」

「遺贈に見せかけて、実は親族間売買。しかも売買契約書は作っていない」
サトウさんは続けた。

「名義を換えたかった理由は……この家を担保にするため、でしょうね」

もはやこれは、家族の問題のようで、実は金の問題だ。

そして浮かび上がるもう一人の名前

「登記簿に載っていないけど、実質的に所有していた人物がいるはずです」

彼女が指さしたのは、古い納税通知書にあった「兄」の名前。

登記名義はあくまでカモフラージュ。本当の所有者は別にいた。

過去の所有者と失踪の真実

10年前、その兄は突如行方不明になっていた。事件性はなく、警察もろくに動かなかった。

しかし、その後すぐに今回の名義人へと所有権が移転されている。

失踪の直後に名義変更——あまりにタイミングが良すぎた。

10年前の売買契約と消えた証人

不動産屋に当時の契約書を確認したが、すでに廃業していた。

証人欄に署名していた人物も今は音信不通。闇の中へ消えていた。

それでも残された「印鑑証明書」が、最後のピースになった。

不在者財産管理制度の盲点

兄が不在者として扱われていれば、本来は家庭裁判所の手続きが必要だった。

だが、それを経ずに名義が移ったということは、何らかの裏口が使われたのだろう。

「制度の隙をついた」と言えば聞こえはいいが、実際には詐欺に近い。

やれやれ、、、偶然は重なるものだ

調査の途中、近くのコンビニに寄った俺は、ふとした偶然でかつての名義人が働いていたことを知る。

「ああ、いたよあの人。兄がいなくなった後、こっちに引っ越してきた」

彼女の目撃証言が、長年の霧を一気に晴らした。

コンビニのレシートが語った本当の顔

ゴミ箱に残された古いレシートに、依頼人の兄と一致するサインがあった。

彼は生きていた。そして、自分の意思で「消えた」のだ。

全ては、家を守るための“芝居”だったのかもしれない。

サザエさん的うっかりと野球部の記憶

思えば、俺も昔、甲子園目前で自分の名前を間違えて書類を出してしまったことがある。

あのときの監督の怒りようといったら、波平レベルだった。

あれから俺は、書かれた名前の「重み」だけは信じることにしている。

司法書士としての決断

名義を元に戻すには、もはや裁判所を通すしかなかった。

依頼人には厳しい現実を伝えた。だが、それでも彼女は「前に進める」と言った。

俺は静かに委任状にハンコを押し、登記の準備を始めた。

名義を正すための代理申請

不正登記の抹消登記、所有権の回復、そして真実の登記へ。

時間も手間もかかったが、それが俺の仕事だ。

「登記簿が語ること」を、俺は信じることにしている。

心が痛む登記の現実

法は正しくあっても、人の感情はそれにそぐわないことがある。

誰かが守ろうとした名義。それは、もう一人の犠牲を生んでいた。

俺の胸の中に、やるせなさだけが残った。

事件の終わりと静かな別れ

登記が完了したころ、依頼人は事務所に現れなくなった。

ふとした瞬間に思い出すのは、あの湿った声と、古びた公団住宅の静けさ。

人は住まなくても、家は何かを記録し続けている。

戻るべきではなかった所有者

兄が戻ってこなかったのは、後悔があったからか、それとも覚悟だったのか。

真実は、今も誰にも語られていない。

だが、少なくとも登記簿は、それを知っていた。

誰も得をしない結末

依頼人も、兄も、所有権を得ても幸せになれなかった。

そんな登記の片隅に、俺の名が代理人として刻まれている。

皮肉な話だ。やれやれ、、、俺は今日も誰かの名前を打ち込む。

名義が語った真実の重さ

名義はただの文字列だ。だが、それが語る真実は時に重い。

俺は机の引き出しにしまった登記簿を閉じ、深く息を吐いた。

コーヒーの香りが漂ってきた。振り向くと、サトウさんが黙ってカップを置いていた。

シンドウの机に残されたひとつの登記簿

それは、誰にも語られないまま終わった事件の、唯一の証人だった。

机に広がる書類の中で、唯一静かに、確かに、真実を残していた。

「シンドウ司法書士」として、俺はそれを最後まで見届けた。

サトウさんの無言のコーヒー

彼女は何も言わなかった。ただ、一瞬だけ俺の目を見て、席に戻った。

その無言の塩対応が、なんだか心にしみた。

俺は苦笑しながら、冷めかけたコーヒーをひと口すすった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓