はじまりは一本の電話から
その朝、事務所の電話はいつもより早く鳴った。まだ湯を沸かしている最中だったので、受話器を取る手にも湯気がかかっていた。
「登記完了証がまだ届かないんですけど」――落ち着いた中年男性の声だった。土地の名義変更を依頼された案件だったが、すでに一週間前に提出を終えている。
「え?まだですか?」と俺は素っ頓狂な声を出してしまった。珍しいこともあるものだ、と首を傾げた。
午前九時の違和感
事務所の壁に掛けた時計が九時を告げる。コーヒーの香りがようやく漂い始めた頃、サトウさんが淡々と出勤してきた。
「登記完了証が届いてないってクレームですよ」と伝えると、彼女は目も合わせずに「また何かやらかしたんじゃないですか」と言って、淡々と椅子に座った。
彼女の冷静な態度が逆に妙に不安を煽る。俺のうっかりか、それとも――。
依頼人は無表情な男
昼過ぎ、その電話の主が事務所に現れた。黒縁メガネに真面目なスーツ、まるで昭和の教師のような佇まいだ。
「登記の控えもないのですか?」と冷ややかに聞いてくる。確かに控えは返送されていない。しかし、法務局へはしっかり提出済だ。
「あの、もしかして……誰かが間違って返送を止めてるとか、そういう…」と俺が口を濁すと、彼はうっすらと笑った。「それなら、簡単なんですけどね」
登記完了証が届かない
問題の登記は、名義変更だけの単純なもの。法務局への提出も記録も確認済。だが、完了証も控えも届いていない。
「普通、到着に時間かからないですよね?」とサトウさんが言う。まるでおかしな家庭を描いたサザエさんの中で、カツオが忘れた宿題を誤魔化すように、俺の言い訳も通じそうにない。
俺は慌ててファイルを引っ張り出し、提出時の受付番号と写しを確認した。やはり提出は間違いない。ではなぜ…。
提出済なのに完了通知がない
登記情報提供サービスで検索しても、登記内容は変更済と出る。つまり、処理は完了しているということになる。
「完了してるのに、完了証がない。妙ですね」とサトウさん。妙というより、不自然すぎる。完了していれば通常、控えとともに証も返送される。
「やれやれ、、、また面倒な話になりそうだな」と俺はつぶやいた。まるで探偵漫画の1話目みたいな幕開けだ。
法務局とのすれ違い
翌日、法務局に問い合わせた。対応に出た登記官は曖昧な返事ばかり。「確かに処理は完了してますが…書類の所在が…」と歯切れが悪い。
書類の所在?それは郵送済か、それとも未発送か。それが曖昧というのはどういうことだ。内部で何かが起きているのか。
疑念が芽生えた瞬間、俺はふとした既視感を覚えた。以前にも似たような問い合わせがあった気がするのだ。
サトウさんの推理メモ
「これ、郵便事故に見せかけた改ざんの可能性ありますよ」とサトウさんが淡々と呟く。彼女は既に一覧表をまとめていた。
そこには、ここ半年のうちに『完了証が届かなかった案件』が三件もある。偶然にしては多すぎる。
「同じ法務局管轄ですね。担当官も……同じ人ですよ」と彼女が赤ペンで丸をつけた。
登記情報のすり替え可能性
控えのない登記は、あとで書類を差し替える余地がある。もし、申請時の内容があとから変えられていたら――。
「まさか…そんなことが?」と俺は息を呑む。だが、証明書が届かないなら、それを確認する術もない。
サトウさんはすでに、登記官の名前でネット検索をかけていた。「あ、SNSに投資関係の投稿が妙に多い人ですね」
過去の登記に潜む歪み
俺たちは別件の登記も調べ直した。すると、確かに一つだけ地目の表記が微妙に異なるものが見つかった。
書類上は問題ないように見えるが、古い資料と突き合わせれば明らかに不自然な変更だった。
「これ、全部そいつがやってるとしたら…ちょっとした内部犯行ですよ」とサトウさんが静かに言った。
登記官との面談
俺は法務局に再度出向き、問題の登記官と面談した。彼は机に肘をつきながら俺の話を聞いていた。
「何か誤解があるようですね」と繰り返す彼の目は、笑っていなかった。机の上には関係ないと思われる別の登記書類が置かれている。
だが、視線の先にあった名前に、俺は見覚えがあった。過去の案件と一致する名義人だった。
机上に置かれた謎の書類
その書類に、俺が以前担当した登記の名義が載っていた。だが、俺が出した内容と明らかに異なる記載がある。
「これは…どういうことですか?」と問い詰めると、登記官の手がピクリと動いた。「ああ、それは…勘違いでしょう」と苦しそうな答え。
勘違いで書類がすり替わるか?どうやら、この男、ただ者じゃない。
うっかりの裏に潜む真実
一見些細なうっかりでも、背後に意図があれば立派な偽造だ。俺の提出書類が、受付後に書き換えられていた可能性が濃厚になった。
俺の「うっかり」のイメージを逆手に取られたのか。そう考えると、腹が立ってきた。
「登記は信頼の上に成り立ってるんだ。勝手なことされたらたまらない」と机を叩いた。
暴かれた虚偽申請の罠
法務局の内部監査が入り、登記官の机から差し替え用の偽造資料が多数発見された。土地の用途や面積を微妙に改ざんし、利得を得ていたらしい。
決め手となったのは、俺の案件に関する未発送の完了証。それは、彼の私物ロッカーに入っていた。
法務局職員による組織ぐるみの調査が開始された。だが、氷山の一角だろう。
すり替えられた本人確認資料
さらに驚いたことに、提出された印鑑証明も差し替えられていた。依頼人の筆跡とも異なる。
本人が全く気づいていなかったのが何より恐ろしい。信頼と油断は紙一重なのだ。
俺は無意識に胸ポケットのボールペンを握りしめた。あの時、もう少し鈍ければ見逃していたかもしれない。
内部者の協力者とは誰か
その後、別の事務局員が登記官に協力していたことが判明した。庶務係として書類管理をしていた人物だった。
「手口は完全にキャッツアイですね」とサトウさんが呟く。まさか、そんな例えが出るとは。
「いや、それならもう少しスマートに逃げてますよ」と俺が言うと、彼女は少しだけ笑った。
事件の結末とその余波
登記官は懲戒免職となり、依頼人には無事に正しい完了証が届いた。書類一枚の不在が、ここまで事を大きくするとは。
事務所には新しい依頼が次々と舞い込むが、俺の肩はどこか重いままだった。
「シンドウさん、また何か忘れてませんか」とサトウさんの冷たい声が飛ぶ。うん、今日も俺は健在だ。
真犯人の動機
結局、登記官は私利私欲のためだったと認めた。「もう少しだけ金が欲しかった」その一言に、誰も言葉を返せなかった。
人は欲の前に盲目になる。だが、登記という信頼の要は、誰かが守らなければ崩れるのだ。
俺がそれを担うなんて、なんだかこそばゆいけど、仕方ない。
静かな午後に残されたひと言
午後の光が書類の山に差し込む。気づけばコーヒーは冷えていた。
「やれやれ、、、冷めたコーヒーは嫌いなんだよな」そう呟きながら、次の事件を待つ俺だった。
でも、ほんの少しだけ、誇らしい気持ちになれたのも事実だ。