朝のコーヒーと8ミリの違和感
いつも通りの依頼書だったはずが
雨上がりの月曜。俺はいつも通り、ぬるいコンビニのコーヒー片手にデスクに座った。机の上には、不動産売買の契約書と委任状。それ自体は珍しくもなんともないが、たった一つ、妙な違和感が俺の目を止めた。
「ん?この訂正印、ちょっと位置が、、、」思わず独り言が漏れる。たかが8ミリ、されど8ミリだ。
サトウさんの眉間が動いた
「8ミリですね」と、背後から冷たい声が落ちてきた。サトウさんが覗き込んでいる。彼女の指はまっすぐ訂正印のズレを指していた。俺が気づくよりも前に、もう気づいていたらしい。
「このズレ、不自然ですね。訂正箇所と印影の距離が一定じゃないです」「やっぱりか……」まるで名探偵コナンに出てくる目暮警部みたいな俺の反応に、サトウさんは少しだけ鼻で笑った。
不動産売買契約書の再確認
印影に潜む微妙な「ズレ」
訂正箇所は「価格」。元の数字を消し、上から書き直し、その横に訂正印が押されている。だがその印が、まるで避けるように微妙にズレている。おまけに、印の周囲にある滲みもやけに不自然だった。
司法書士としての長年の勘が告げていた。このズレは偶然じゃない。
訂正印は本当に本人が押したのか
委任者本人の実印とされる訂正印。だが、それが本人のものではない可能性が浮かび上がる。俺は登記識別情報と印鑑証明書を再確認し、念のため過去に本人が提出した印影と照合してみた。
「うわ、こっちはもっとズレてるぞ……」まるで素人が押したかのような乱れ方。誰かが、急いで偽装したに違いない。
依頼人の口が重くなるとき
「やっぱり司法書士って怖い」
再度、依頼人を呼び出し、軽く雑談を交えながら核心に触れると、彼は笑顔の裏に汗をにじませた。
「実はですね、ちょっと手続きが急でして……ま、訂正印は親戚が代わりに……」「は?」一瞬、時間が止まった。司法書士にとって、その一言は地雷だ。
サザエさんには出てこない事情
「親戚が代わりに押したって、それアウトですよ」とサトウさんが淡々と畳みかける。依頼人は慌てて言い訳を並べたが、サトウさんはまるで波平がカツオを叱るかのように、容赦がなかった。
やれやれ、、、こういうのが一番面倒なんだよ。
古い登記簿と新しい証拠
登記の履歴に残された不自然な移動
登記簿を洗い直していくうちに、奇妙な連続移転が浮かび上がった。2年前の贈与、その後すぐの売却、そして今回の所有者変更。まるで何かを隠すためのリレーのようだった。
「この物件、実質の所有者がずっと一緒かもしれません」サトウさんの言葉に、俺は背筋がぞくりとした。
調査権限外で嗅ぎまわるときの覚悟
司法書士の限界は、法律に忠実であることだ。だが、あまりに見え見えの嘘に対して、何もしないのはそれ以上に無責任だと俺は思う。
俺は、警察に情報提供することを決意した。
サトウさんの冷静な追及
犯行の動機は“相続”ではなかった
最初は相続隠しだと思っていた。だが違った。犯人の目的は「税金逃れ」だった。価格を訂正し、低く見せかけることで課税額を下げようとしていたのだ。
それを裏付ける証拠が、あの8ミリのズレだった。
8mmの差に込められた悪意
8ミリという微差は、視覚的には見逃されやすい。しかし、書類というのは常に証拠であり、8ミリの嘘は8年の罰につながることもある。
「そこまでやって、バレないと思ったんですかね」とサトウさんは首をかしげる。
「やれやれ、、、またか」
元野球部の勘が冴える瞬間
書類の違和感から始まった今回の一件。俺の勘も、まだ捨てたもんじゃない。野球部時代、相手のバントを見抜いたときのあの感覚と似ていた。
「結局、最後に決めるのは現場の目だよな」
最後に帳尻が合った日
警察への通報後、偽造は明るみに出て、依頼人は事情聴取を受けることになった。手続きは白紙に戻り、再度の登記はやり直しとなった。
誰も得しない結末だったが、帳尻はきっちり合った。
警察にバトンを渡すその前に
司法書士ができることの限界
俺たちにできるのは、書類を整えることまで。だが、その先にある人間の動きまでは制御できない。
だからこそ、嘘を見逃すわけにはいかないのだ。
だからこそ書類に嘘は書けない
書類は正直だ。押された印影も、訂正の余白も、全て語っている。だからこそ、嘘を見破る鍵になる。
そして今日もまた、俺の前に一枚の紙が届く。何も起こらないことを、少しだけ願いながら。
事件が終わってからの苦い雑談
サトウさんの一言が刺さる
「結局、男の人って訂正印を押すのもヘタですね」コーヒーを飲みながらサトウさんがぼそっと言う。俺は何も言い返せなかった。
本当に、返す言葉もない。
「無駄な訂正印って、男の見栄に似てますよね」
彼女のその言葉が、妙に胸に残った。訂正印も見栄も、どちらも余白を潰す。
だけど、その余白こそが、人の本音だったりするのかもしれない。
8ミリの代償
わずかな誤差が導いた真実
8ミリ。それだけのズレで人生が変わるなんて、誰が思うだろう。でも、そのズレは真実への道しるべにもなった。
俺は今日も、細部に神が宿ることを信じて、机に向かう。
記録に残るものと、残らないもの
記録に残るのは、訂正された文字と押された印だけ。でも、そこに込められた思惑は、記録には残らない。
だからこそ、俺たちが目を光らせなければならない。そう思いながら、次の書類に目を通すのだった。