誰にも話せない日々が積もっていく
地方で司法書士事務所を営んでいると、日常の多くが一人の作業に支配されます。業務は多岐にわたり、責任も重く、誰かに軽く愚痴をこぼすということすら難しい現実があります。そもそも、司法書士という職業自体が「相談を受ける側」であり、弱音を吐いた瞬間に信用を損なうのではないかという不安が付きまといます。だからこそ、たとえどんなに心がしんどくても、表面上は「平気なふり」をして過ごしてしまう。これが地味に効いてくるんです。気づけば心に小石が積み重なり、ある日、ふと「話せる人がいないな」と空を見上げてしまうのです。
事務所にこもる日常と無音の孤独
毎日、朝から晩まで事務所にこもりきりの生活。電話や郵便、メール対応と書類作成、そして登記手続き。流れ作業のように業務は進みますが、誰とも会話を交わさない日も珍しくありません。事務所の空気は張りつめていて、BGMの代わりに印鑑を押す音が響きます。「今日、誰とも声を発していないな」と気づく夕方には、なんとも言えない虚しさに襲われるのです。
電話は鳴るが、心の声はどこにも届かない
電話はよく鳴ります。でも、それは依頼や問い合わせ、クレームだったりすることがほとんどで、こちらの話を聞いてくれる人ではありません。むしろ、こちらが相手の話を聞き、冷静に対応する側です。いざ、自分の気持ちを誰かに話そうとしても、「それってあなたの感想ですよね」で終わりそうで、結局また黙ってしまう。心の声は、誰にも拾ってもらえないまま、ただ胸の中でこだまします。
事務員との距離感も縮まらず
事務員がいるとはいえ、雇用関係という立場上、気軽に心情を吐露するのも難しいものです。私が悩みを漏らせば、「先生、大丈夫ですか?」と気を遣わせてしまう。それもまた申し訳ない。気がつけば、事務員との会話も業務連絡だけにとどまり、昼休みの空気は沈黙で満たされていく。せめてもう少し打ち解けられたら…と願う日々ですが、一度できあがった距離感は、なかなか崩れません。
友人関係の希薄化と司法書士の宿命
昔はいたんです、気兼ねなく話せる友人が。でも年齢を重ね、仕事に追われる日々の中で、徐々に疎遠になっていきました。久しぶりに連絡しても、子育てや転職の話ばかりで、こちらの話に付き合ってもらう隙がないように感じてしまう。司法書士という仕事自体が、なにかこう、他人に説明しづらい性質を持っていて、「へえ、大変そうだね」で終わってしまう。そんな空気に、私はもう慣れてしまいました。
プライベートの会話が途絶えて久しい
最近では、誰かとプライベートな会話をした記憶すらあやふやです。コンビニのレジで「袋いりますか?」と聞かれることが、一日の中で唯一の非業務会話だった日もありました。お酒でも飲みに行けば少しは紛れるかと思いましたが、独りで飲む酒は寂しさを余計に染み込ませるだけ。気づけば、誰かとただ「雑談する」という行為が、ものすごく高いハードルになってしまっていたのです。
「仕事の話」は重すぎて引かれてしまう
司法書士という仕事の話って、聞く側にとっては正直、重たいんですよね。登記や相続、法律用語が飛び交う話は、興味がない人にはちんぷんかんぷん。それどころか、「なんだか難しそう」とか「話が暗い」と思われてしまう。だからつい、何を話していいのかわからなくなる。結果として、「話す相手がいない」というより「話せる内容がない」と錯覚してしまうのです。
聞いてほしいのに、誰も聞いてくれない
つらいときこそ誰かに話を聞いてほしい。けれど、「誰かに聞いてもらう」という行為が、こんなにも難しくなるとは思いませんでした。人に弱みを見せることが怖くなる年齢。仕事上の信頼関係を壊したくない気持ち。そうやって、自分で自分を追い込んでしまっていることに、ふとした瞬間に気づきます。聞いてほしいのに聞いてもらえない。いや、正確には「聞いてほしいと言えない自分」がいるのです。
家族にも言えない、言いたくない
両親には、元気にやっていると思っていてほしい。そんな気持ちが強すぎて、結局は本音を隠してしまいます。「最近どう?」と聞かれれば「忙しいけどまあまあだよ」と答える。嘘じゃないけど、真実でもない。兄弟には連絡すらあまり取っていません。なんとなく話すきっかけもないし、お互いに距離ができてしまっている。家族という存在が、年齢とともに「話しづらい相手」になってしまったのは、なんとも皮肉です。
親に心配かけたくないという抑制
年老いた両親に、「実はしんどくて…」なんて言ったら、きっと夜も眠れなくなるほど心配するでしょう。それがわかっているからこそ、こちらは「平気なフリ」をするのです。でも、心は正直で、そんな抑え込みが続けば続くほど、どこかでポキッと折れてしまいそうになります。心配をかけたくないという思いやりが、自分の孤独を深めてしまっている。このジレンマに、答えは出ません。
兄弟との距離感、年齢とともに空いていく
子どものころは、何でも話せる存在だった兄弟も、今では年賀状のやり取りが精一杯。ライフステージが違いすぎて、共通の話題すら見つからない。しかも司法書士という仕事の特殊さゆえに、「お前の仕事ってよくわからん」と言われてしまう。そう言われると、もう話す気も失せてしまうんですよね。たぶん、相手に悪気はない。でも、こちらにとっては、ちょっとした言葉が胸に刺さるんです。
同業者には「弱音」を見せづらい現実
同じ業界の人たちとは、仕事の情報交換はできても、悩みの共有は難しいのが本音です。表面的には笑顔で付き合っていても、内心では「負けたくない」「あの人よりは稼ぎたい」といった感情が交錯しています。そんな場で、「最近ちょっと疲れててさ」とか「モチベーションが下がっててさ」と言っても、「ああ、そうなんだ」と流されて終わり。安心して心を預けられる相手なんて、そうそう見つからないのです。
相談すれば噂になる田舎の壁
地方ならではの閉鎖性もあって、「あの人、最近調子悪いらしいよ」なんて噂があっという間に広まります。そうなると、信用にも関わる。ただでさえ司法書士は信頼が命なのに、そんな風に囁かれたら致命的です。だから相談もできず、悩みを隠すしかない。心が折れかけていても、平然とした顔で仕事を続けなければならないのは、なかなかに過酷なことです。
競争心のある関係性で本音が出せない
表では「協力しましょう」と言いながら、裏ではライバル意識が強く働くのが同業界の難しさです。仲良くしているようで、実はみんな、どこかで張り合っている。そんな関係の中で、弱さを見せたらどうなるか。心の中では「ここで本音を言ったら、あとでネタにされるかもしれない」と警戒してしまう。そうやって、ますます言葉が飲み込まれていくのです。
話を聞いてくれる存在を求めて
結局、人は誰かに話を「聞いてもらいたい」生き物なんですよね。聞いてもらえたら、それだけで少し楽になることだってあります。でも、その「誰か」が見つからない。それなら無理に探さず、まずは「話すこと」のハードルを少しだけ下げてみるところから始めてみてもいいのかもしれません。私自身、そういう存在に飢えていると自覚しただけでも、少し楽になれました。
メンタルケアと外部の支援を考える
最近では、司法書士向けのメンタルケアサービスも増えてきています。誰にも話せないなら、専門家に話すのも一つの選択肢です。実際に私も、一度オンラインでカウンセリングを受けてみました。最初は身構えていましたが、「ただ話を聞いてくれる存在」がいるだけで、こんなにも楽になるのかと驚きました。話し相手がいないなら、無理に身近な人に頼らずとも、外に目を向けるのもアリです。
カウンセリングは敷居が高い?
確かに、カウンセリングという言葉にはまだ抵抗がある人も多いと思います。かつての私もそうでした。でも、それは「心が弱い人が受けるもの」ではなく、「心を整えるためのメンテナンス」だと考え直すだけで、ハードルがぐっと下がります。車も定期的に点検するように、人の心にも点検が必要なんだと、そう思えたらきっと一歩踏み出せるはずです。
SNSやコミュニティの使い方
SNSは毒にも薬にもなりますが、上手に使えば「話を聞いてくれる人」を見つける場にもなります。匿名で愚痴を吐ける場や、司法書士向けのオンラインコミュニティもあります。私も試しに参加してみたところ、「あ、自分だけじゃないんだ」と感じられて、それだけで気が楽になったのを覚えています。話すことができる場所を、自分で選べる時代になったんです。
話せる相手がいないこと自体が、すでに限界サイン
「誰かに話したい」と思った時点で、心はかなり疲弊しています。その声を無視し続けると、やがて動けなくなる。そうなる前に、自分の心の声に耳を傾けてあげてください。「話せる相手がいない」というのは、単なる事実ではなく、警告のサインなのです。私自身、何度もそれを見落としそうになりました。
小さなサインに気づける自分でいるために
ため息が増えた、笑えなくなった、夜眠れなくなった。それらはすべて「話したいけど話せていない」心のサインかもしれません。だからこそ、自分の変化に気づいてあげることが大切です。無理にポジティブにならなくてもいい。ただ、「あ、自分いま少し限界かも」と思えたら、それは立派な一歩です。
無理せず「頼る」ことの大切さ
人に頼ることは、決して甘えではありません。むしろ、「頼る」という行為は、自分の限界を知ったうえで、前に進むための戦略です。私もようやく、「自分一人で頑張りすぎるのはもうやめよう」と思えるようになりました。話を聞いてくれる相手がいないなら、まずは自分の心に耳を傾けてください。そこからすべてが始まります。