朝の郵便と一通の封筒
その朝、俺のデスクの上に無言で置かれた一通の封筒。切手が古びていて、投函されたのは一週間も前のようだった。宛名には「司法書士シンドウ先生」とだけ記され、差出人はなかった。
「なんでこんなタイミングで届くんだ」とぼやきながら開封すると、中には一通の内容証明の写しと、登記簿謄本のコピー。差出人の名前はあったが、見たことのない女性の名だった。
差出人の記載がない謎の内容証明
内容証明には、不動産の権利に関する異議申し立てが記されていた。だが、登記名義人は別の人物で、その旨が法務局の登記簿にも明記されていた。あからさまに、これはただの「書類の間違い」ではない。
記載された住所にその女性はもう住んでおらず、電話番号も使われていなかった。まるで幽霊から届いた恋文のような、不思議な文面だった。
依頼人は名乗らなかった
誰が何のために送ってきたのか、まったくわからなかった。唯一の手がかりは、登記簿の表題部にだけ記された名前。内容証明の差出人の名と一致していた。
しかし、問題の土地には、その女性の登記記録はない。所有者は十年前に変更されており、抵当権も数年前に抹消されていた。
表題部にだけ記された名前
この表題部、つまり土地や建物の物理的な記載部分だけに、かつての所有者らしき名が記されている。それ以外の履歴には彼女の存在は一切ない。
「なにかが書き換えられている……そんな気がするんですよね」とサトウさんは冷静に言った。さすがは我が事務所の切れ者だ。
一枚の登記簿に記された恋
表題部に残された名前、それはきっと過去の名義変更時に何らかの事情で記載されたのだろう。だが、その一行があまりに不自然だった。
普通はそこに個人名が出ることは少ない。不動産会社名などが記載されるのが一般的だからだ。そこに女性の個人名があるのは、異例だった。
所有権の変遷に見え隠れする記憶
法務局で過去の閉鎖登記簿を調べると、やはりその名はかつての所有者の婚約者だったという記録が出てきた。だが、婚姻の記録も名義変更の根拠もなかった。
彼女は名義人になることも、正式に権利者となることもないまま、名前だけが記録の中に残されていた。
元所有者の不在
現地を訪ねたが、今の所有者も空き家にしており、近隣住民もほとんど引っ越していた。「昔、若い女性がいたけど……もう十年以上前の話だよ」
まるでドラマの回想シーンのような語り口に、俺は思わず首をかしげた。事務所に戻っても、封筒の差出人については一歩も進展がなかった。
登記原因に残された空白
不思議なことに、所有権移転の登記原因証明情報が「売買」とだけ記載されていた。通常であれば契約日や売買金額も記載されるはずだ。
「あの書類、わざと何かを伏せてたんじゃないですかね」とサトウさんが呟いた。まさか……これはラブレター代わりだったのか?
仮登記という名の仮面
さらに古い仮登記がひとつだけ残っていた。「所有権移転仮登記(贈与)」という内容。しかし、それは登記完了する前に抹消されていた。
誰かが思いとどまり、あるいは別の意志が働いて、贈与は成されなかった。それが真実だとしたら、そこに込められた想いとは何だったのか。
埋め込まれた数字と文字列の違和感
仮登記申請人の名前が、後の売買契約書の買主と微妙に異なっていた。名字は同じだが、下の名前が旧字体になっている。まるで別人のように。
「変装……というか、偽名みたいなもんですね。コナンくんで言えば黒の組織みたいな」と俺が言うと、サトウさんは無言でコーヒーを差し出してきた。
サトウさんの冷静な視線
サトウさんは俺より20も若いが、頭の回転では完全に上。特にこういう地味な調査では敵なしだ。
「先生、これも見てください。今の所有者、あの女性と同じ会社で働いてたみたいですよ」そう言って見せられたのは、古い社報の切り抜きだった。
「この登記、変ですね」
「この登記、変ですね。名義変更がなされた日、同じ会社の人間が二人同時に名義を移してます」つまり、これは組織ぐるみの何かだった可能性もある。
「やれやれ、、、また厄介なやつだな」と、俺はつぶやいた。
やれやれと言いながら現地調査へ
再度、現地を訪れた。もう一度しっかり目に焼きつけたくなったのだ。すると、誰かが最近植えたような花が、雑草の間から顔を出していた。
その小さな白い花には名札が付いており、「君に捧ぐ」と手書きの文字が添えられていた。
更地に咲いていた名もなき花
花の名は書かれていなかった。だが、それが彼女の手によるものであることは、なぜか確信できた。あの表題部の名前、その意味がやっとわかった気がした。
彼女は名義じゃなく、想いを残したんだ。登記簿の余白に、ささやかな恋の証明を。
不一致だったのは登記だけじゃない
俺はふと、自分の人生も登記簿のようなものかもしれないと思った。名義だけでは分からない、本当の想いや記憶がどこかに眠っている。
たぶん、それは誰にでもある。そして、誰かが気づいてくれるのを、じっと待っているのかもしれない。
関係者の証言に現れたもう一人の名
後日、彼女と同じ会社にいた男性から話を聞くことができた。彼は彼女に恋をしていたという。だが、その想いは伝わらなかった。
彼女は、かつての恋人の土地に自分の名前を記して、ひっそりと去ったらしい。まるでキャッツアイのように、跡だけ残して。
かつて交わされた契約と再会
「契約書って、法的な文書だけじゃないんだな」と思った。人と人との間に交わされた沈黙の約束。それもまた、一種の契約かもしれない。
登記簿に残ることのなかったその感情は、ただ静かに、土地とともにそこにあった。
遺された契約書と未練
実は、古い契約書の裏に、詩のような一文が書かれていた。達筆なその文字は、彼女の筆跡と一致した。
「あなたが忘れても、この土地は私を覚えている」。たぶん、彼女にとってそれで十分だったのだ。
抹消された記憶が語るもの
すべての仮登記はすでに抹消され、名義も現代的に整っている。それでも、その記録をたどった俺たちの心には、なにかが残った。
サトウさんも、無言で何度かうなずいていた。それが珍しくて、俺はちょっとだけ笑ってしまった。
恋愛と登記の意外な共通点
証明できるものだけが真実ではない。愛も、記憶も、時には仮登記のまま、心にとどまり続ける。
たとえ正式に記録されなくても、それは確かに存在していた。
登記官の沈黙
法務局の登記官に確認しても、彼は何も語らなかった。ただ一言、「あの案件は…ちょっと変わってましたね」とだけ呟いた。
やはり、誰かが見守っていたのだ。恋も、土地も、過去も。
裏付けられた証明情報の矛盾
すべてが整っているはずの書類の中に、ひとつだけ矛盾が残っていた。申請された日付と、所有権の効力発生日が一致していなかったのだ。
それはたぶん、彼女が最後に仕掛けた「想いのタイムラグ」だったのかもしれない。
真実は余白にこそ宿る
俺たちは、何も追及しなかった。仮登記も、契約書の裏も、すべてそのままにしておいた。これが、彼女の答えなのだと思った。
表題部の一行だけで語られることはない恋。それは、たしかに存在した。
表題部の外にあった真の所有者
名義人の背後に、もう一人の所有者がいた。それは、心の中にだけいる人物だったのかもしれない。
でも、その存在が、土地に魂を与えていたのは間違いない。
その恋は誰のものだったのか
真相は、永遠にわからない。彼女の名も、今はどこにも存在していない。だが、俺たちは見てしまったのだ。名もなき恋の痕跡を。
それだけで、この事件はもう十分だった。
封筒に綴られていた最後の一文
最後に封筒の裏を見返すと、そこには鉛筆でこう記されていた。「登記できなくても、愛しました」。
俺は封筒をそっとしまい、深く息をついた。「やれやれ、、、これは登記簿に残せないやつだな」