朝の来客と一枚の委任状
旧姓で書かれた奇妙な依頼
事務所のドアがカラカラと音を立てて開いたのは、まだコーヒーの湯気が立ち上っている午前九時ちょうどだった。
訪れたのは見知らぬ女性――と思ったが、名を聞いた瞬間、十年前の記憶が脳裏に蘇る。
彼女の差し出した委任状には、旧姓である「小野寺美咲」の名があった。
サトウさんの冷たい視線
隣のデスクからは冷たい視線が突き刺さる。サトウさんが腕を組んで、すっとメモ帳に何かを書いている。
「知り合いですか?」という問いはない。ただただ無言の圧力がすごい。
俺は思わず身を乗り出して、笑ってごまかすしかなかった。
予約登記という名の記憶
十年前の名義人との再会
小野寺――いや、今は違う名で生活しているらしい彼女は、十年前に予約登記の手続きを依頼してきた女性だ。
その時は婚約者との新居購入に伴うものだったが、何らかの事情で登記が完了しないままになっていた。
まるで途中で止まった恋の手続きのようだった。
封印された婚約証書の存在
話を聞くうちに、あのときの予約登記と一緒に添付された「婚約証書」が鍵になると気づいた。
彼女はそれを今さら取り下げたいという。だが、婚約相手が失踪しており、行方不明のままだというのだ。
「消したいんです、過去を。法的にも心の中でも」と、彼女はかすかに震える声で言った。
恋と登記が交差する瞬間
元恋人の涙と謎の申請書
提出された申請書類を確認すると、婚約者の署名欄が不自然に新しい。
筆跡も当時のものと微妙に違うように見える――俺の脳裏に一つの疑念が湧いた。
誰かが偽装して提出したのではないか?そして、それが彼女の仕業でないなら、いったい誰が…。
やれやれ、、、俺の出番か
サトウさんが無言でコーヒーを差し出してくる。香りが強めのブレンドは、彼女なりのエールなのかもしれない。
「やれやれ、、、俺の出番か」と呟きながら、俺は封筒に手を伸ばす。
元野球部の第六感が、今日もまた試合開始を告げていた。
登記簿に記された嘘
証拠は数字の裏に潜む
過去の登記簿記録を洗い直していくと、ある番号の重複が見つかった。
提出された予約登記とほぼ同時刻、まったく別の内容の登記申請が同じ筆跡で処理されていたのだ。
これは単なる偶然ではない。誰かが意図的に登記を操作していた痕跡だった。
恋人か、詐欺師か
彼女の元婚約者は詐欺事件で指名手配中だったことが判明する。
彼女は被害者でありながら、予約登記を消すことで自分の関与を疑われるのを恐れていたのだ。
「最後まで信じてた自分がバカだった」と、彼女はぽつりと呟いた。
法務局とサザエさんの勘
日付に仕掛けられたトリック
提出日と登記日が逆転している――これは昔、サザエさんで波平さんが間違えて届けを出した話と同じパターンだ。
「日付のトリック」は地味だが、司法書士にとっては致命的なミスである。
だが、今回はわざと間違えたように仕組まれていた。犯人は熟練者だ。
エビフライと真実の味
昼休みに入った俺は、サトウさんが買ってきてくれた弁当のエビフライを噛みしめながら、真実を整理する。
「やっぱりエビフライは衣の厚さじゃない、中身だよな」と独り言。
その瞬間、嘘の本質にも気づいた。予約登記は恋の証明ではなく、逃亡のための保険だったのだ。
告白と解除条件の罠
サトウさんの推理が動く
「その証明書、実は紙の色が違うんですよ」とサトウさんがぽつりと呟く。
本来使われるはずの法定用紙ではないそれは、精巧な偽造書類だった。
やっぱりこの人、只者じゃないなと改めて思い知る。
登記の効力が恋を暴く
偽装登記は無効となり、彼女は正式に解放されることとなった。
だが、そのためには一度“過去の恋”を司法の力で明文化し、抹消せねばならなかった。
恋の終わりは静かで、しかし確かに法の記録に残された。
最後の申請と小さな決着
申請書の裏に書かれた本音
提出書類の裏面には、小さな文字で「ありがとう」とだけ書かれていた。
法律の世界には似合わない一言だが、それが妙に心に染みた。
俺はそれを見なかったふりをして、静かにファイルを閉じた。
それでも恋は未登記のまま
人の気持ちは登記できない。たとえ予約していたとしても、それが実行されるとは限らない。
恋の終わりに必要なのは抹消登記ではなく、次の誰かに向けた新たな申請かもしれない。
俺の恋?……やれやれ、それは当分未登記のままでいそうだ。