朝のコーヒーと未読の通知
「あ、コーヒー淹れすぎた…」いつもの朝、いつもの独り言。ドリップからあふれたコーヒーがサトウさんの書類の角を濡らした。僕の一日は、たいていこの「うっかり」から始まる。
デスクに座ると、スマホがブルっと震えた。Gmailのアイコンには赤い丸。未読の通知が5件。ほとんどが広告か、業者の催促。だが、ひとつだけ気になる件名があった。「遺産のことで相談したい」
発信者の名前に見覚えはなかったが、その響きはどこか張りつめていて、妙に引っかかった。
サトウさんの塩対応と始業の儀式
「書類、また濡らしましたね」ドアの開く音とともに、サトウさんが入ってきた。口調は相変わらずだが、目線はすでに僕の手元の封筒に向けられている。彼女の観察眼は、時に名探偵コナンも顔負けだ。
「やれやれ、、、今日も始まったか…」僕はコーヒーをすする。どこかで聞いたようなセリフを呟いて、現実逃避を試みるが、現実は逃げてくれない。彼女は黙ってメールを開いた僕の画面を覗き込んだ。
「この人、来ますよ。たぶん午前中に」そして彼女は、手帳をパタンと閉じた。予言者か。
依頼人は言葉少なな青年
10時を少し回った頃、若い男性が訪れた。黒いシャツにジーンズ、下を向いたまま名乗った。「兄が突然死んだんです」
声には感情がなかった。事務的な響き。だが、目の奥には、言葉にできない何かが沈んでいた。こういうのは、経験でわかる。
「相続のことで…お願いできるかと…」手にした封筒には、兄の死亡診断書と戸籍謄本、そして古びた手帳。
遺言もなく通帳もなし
確認してみると、遺言書はなく、預金通帳も見つかっていないという。あるのは手帳に挟まれた紙切れと、スマホだけ。
「兄はフリーライターでした。メールで全部やり取りしてたみたいで…」弟は、手帳とスマホを差し出した。
古びたスマホ。画面にはいくつかのアプリ、そして「下書き」という文字が目に入った。嫌な予感がする。
故人のスマホに残された謎
僕はスマホを借り、メールアプリを開いた。「下書き」の中には、一通の未送信メールがあった。件名は「ごめん」
差出人は故人。宛先は入力されていなかった。そのメールは、まるで誰にも届くことを望んでいないようだった。
中身を読み進めるうちに、首筋にじっとりと汗がにじんだ。そこには、登記に関する記述があったのだ。
削除された履歴と残された下書き
送信履歴は消されていた。検索履歴も、ブラウザのキャッシュもなかった。唯一、残されたこの下書き。
そこには「自分の名義で登記してしまった土地のこと」「父に内緒でやった借金のこと」「弟には言えなかったこと」など、本音が綴られていた。
このメールが宛てたかった相手は、たぶん弟だ。でも、送れなかった。あるいは、送らなかった。
本音はいつも未送信
それはきっと、自分自身への告白だったのかもしれない。あるいは、許しを請う勇気が出なかっただけなのかもしれない。
「こういうのって…どうすればいいんでしょうね」弟が呟いた。僕は答えに窮した。
法的にはただの下書きメールだ。効力なんてない。ただ、そこに込められた想いだけが、本当の遺産だった。
やれやれ、、、また面倒なことに
事務所に戻って、僕はメモを整理しながらコーヒーを飲んだ。冷めていた。やれやれ、、、ほんとに、人生ってやつは。
目を上げると、サトウさんが無言でスマホを覗いていた。「この土地、借地権の名義が妙ですよ。登記ミスかも」
名探偵、いや司法書士助手サトウさん、恐るべしである。
サトウさんの推理が冴え渡る
「これ、兄じゃなくて父の名義ですよね。でも登記が途中で止まってる。法務局で確認します?」
僕はすぐに法務局の登記簿を閲覧した。すると、確かに奇妙な登記の変更履歴があった。
申請されたが、補正命令が出され、放置されていた。まるで途中で投げ出したように。
本文から読み取る感情の揺れ
未送信メールの内容と照らし合わせると、すべてがつながった。兄は、誤って自分の名義で登記し、それを隠していた。
だが、死を前にして、弟に打ち明けたかった。本音を書いたメールを送れなかった。それが、彼の葛藤だった。
司法書士としてではなく、人として、その想いは伝えてあげたくなった。
一通のメールが招いた悲劇
「兄は…ずっと苦しんでたんですね」弟はそう呟いた。僕は何も言えなかった。法律では解決できないものがある。
だが、未送信のメールが語った真実は、少なくとも彼の中で兄への憎しみを和らげただろう。
土地の登記は、法的に整理された。だが、心の整理は、弟自身がするしかない。
兄弟の確執と取り戻せなかった時間
喧嘩別れしたままだったという。最後に話したのは一年前の父の法事。たわいもない口論だったらしい。
メールには「今なら素直に謝れる気がする」とだけ、記されていた。それが彼の遺言だったのかもしれない。
僕は、その文面を印刷して、弟に手渡した。
最後にメールは誰に届いたのか
「送ってもいいと思いますか」弟が問う。僕は頷いた。「送りましょう。相手が誰であれ、今なら届くかもしれません」
弟はスマホを取り出し、兄のアドレス帳を開いた。そして、父のメールアドレスに、その未送信の文章を転送した。
届いたのか、読まれたのかは、誰にもわからない。ただ、少しだけ肩の荷が下りたような弟の顔が印象的だった。
静かに閉じる送信画面
事務所の帰り際、スマホの送信履歴をそっと確認した。そこには「送信完了」の表示。
誰かに届いたかはわからない。でも、誰かに読まれてほしいと願った本音が、今ようやく動き出したようだった。
「やれやれ、、、たまにはメールも悪くないな」そう呟いて、僕は事務所のドアを閉めた。