静かな依頼人
突然の訪問者
午後の事務所に、カランと控えめなドアの音が響いた。そこには、グレーのスーツに身を包んだ中年の女性が立っていた。どこか影のある表情で、手には一枚の封筒を握りしめている。
「契約を、解除したいんです」と、その女性――安藤と名乗った――は呟くように言った。契約の種類も相手も話さず、ただ「解除したい」とだけ。僕は思わずサザエさんのノリスケが企画書を出す前に帰る姿を思い出してしまった。
解約通知の行方
封筒の中には、簡素な解約通知が入っていた。形式は整っているが、署名がない。相手方も不明。契約書本体も添付されていない。僕は書類を睨みながら、コーヒーをすすった。
「このままじゃ、ただの紙切れですよ」そう言うと、安藤は少しだけ目を細めて笑った。「紙切れで十分なんです。形式さえ整っていれば」……どうにも腑に落ちない。だが、それが僕の仕事でもある。
サトウさんの推理
契約書の違和感
「これ、そもそも契約そのものが不自然ですね」とサトウさんが書類に目を通しながら呟いた。彼女の指摘はいつも的確で、時に僕の立場を危うくさせる。
「契約日が三ヶ月前。解除日が今日。だけど通知文の発行日は昨日になってる。どこでタイムマシンを借りてきたんでしょうね」彼女の目が鋭く光った。あぁ、また出たな、名探偵サトウさん。
署名の意味を読み解く
サトウさんは続けて、「署名が無いってことは、法的拘束力が発生していない可能性もあります」と指摘した。つまり、これは誰かを欺くための“演出”かもしれない。
僕は再び書類を見つめ直した。すると、うっすらと跡のようなものが浮かんでいる。ボールペンの圧痕……? 僕は台所用のアルミホイルを取り出して(こういうのはドラマで覚えた)、光の角度を変えてみた。
過去の契約に潜む秘密
登記簿の矛盾
契約の背景を追うため、不動産登記簿を取り寄せた。すると、所有者の名義が去年の冬に変更されていたことが分かった。しかも、旧所有者は亡くなっている。
「……これ、相続登記が未了ってやつじゃないですか?」と僕がぼやくと、サトウさんは「やれやれ、、、そんなの基本ですよ」と呆れた様子。いや、知ってる。知ってるけどさ。
もう一人の当事者
契約の当事者として浮かび上がったのは、亡くなった旧所有者の息子だった。彼が名義変更前に結んだ契約を、母である安藤が“解除”しようとしている構図だ。
だがそれは法的に極めてグレーな領域で、解約の権限すら持っていない可能性がある。なのに彼女は「形式だけでいい」と言った。……何かを隠しているのは確かだ。
解約を望んだのは誰か
沈黙の意図
安藤に再び会いに行ったが、彼女は「もう話すことはありません」とだけ言った。まるで、何かを守るような、あるいは誰かを庇うような口ぶりだった。
「黙ることで、真実を隠す人もいる」とは昔の探偵漫画の決め台詞だが、まさにそれだった。僕はその言葉を噛みしめながら、彼女の家をあとにした。
解約手続きに隠された動機
調査を進めると、旧所有者が生前、ある宗教団体と契約していたことが分かった。高額な寄付と土地の譲渡を条件にした、実質的な生前贈与契約だった。
安藤が解除しようとしたのは、息子がその契約の継続を望んでいたから。つまり、彼女は息子を救うために“無効な解除通知”を送ったのだ。泣き寝入り覚悟で。
真実への手がかり
郵便記録が語ること
解除通知は内容証明で発送されたが、実は送付先が旧住所になっていた。つまり、法的には“届いていない”扱いにできる。安藤はそれを計算していたのだ。
「悪知恵があるっていうか、切なさと背中合わせですね」とサトウさんが言った。あの塩対応の裏に、少しだけ人間味がにじんでいた。
やれやれ、、、またかという思い
僕は深いため息をついた。やれやれ、、、またしても書類の裏にドラマがある。単なる紙のやりとりで済むと思っていたのに、この仕事はいつも心を揺らしてくる。
でも、そういうのが嫌いじゃない自分がいる。疲れるけど、どこかで人を助けている気がするから。……まぁ、サトウさんがいなきゃ何も進まないけどさ。
最後の一手
契約解除の本当の理由
翌週、安藤は正式に土地の所有権を放棄し、代わりに息子が名義を相続することとなった。宗教団体との契約は、未到達の解除通知によって自然消滅の道を辿る。
「結果オーライですね」と僕が言うと、サトウさんは「結果だけ見るなら、ですが」とそっけなく返した。……冷たいけど、それが心地よくもある。
浮かび上がる犯人の狙い
犯人、という言葉は大げさかもしれない。でもこの件では、契約という“仕組み”を利用して何かを守ろうとした者と、それを見抜こうとした者がいた。
もしあの封筒がなければ、真実は埋もれていたかもしれない。うっかり者の僕でも、少しは役に立てた気がする。
事件の終焉
依頼人の涙
安藤が最後に見せた涙は、後悔でも敗北でもなかった。あれはきっと、少しだけ未来が見えた人間の涙だと思う。静かにうなずき、僕は契約書の山に戻った。
まだまだ仕事は終わらない。だけど、今日は少しだけコーヒーが美味しく感じた。
サトウさんのひと言
「次の事件はもう来てますよ、シンドウさん」そう言って、彼女は書類の束を僕の机に置いた。やれやれ、、、休む暇もないらしい。
でも、そういう日常がきっと僕たちの“契約”なのかもしれない。