冒頭に届いた奇妙な依頼
午前十時、いつものようにコーヒーの香りが事務所に満ちる中、古びたスーツの男が訪ねてきた。名刺には「日向不動産営業部」と書かれていたが、その男の目はどこか泳いでいた。開口一番、彼は「売買代金が未収なんです」と切り出した。
「登記も終わってるし、領収書も出した。なのに、金が振り込まれないんです」とのことだった。シンドウは眉間にしわを寄せた。売主が代金を受け取っていない?それはただの手続きミスか、それとも——。
依頼人の話を聞いていくうちに、どうにも釈然としないものが胸に残った。そこには何か、見えない「意図」があるように思えた。
代金未収を巡る相談
相談の内容はこうだった。売主である依頼人は三か月前に土地建物を売却し、司法書士を通じて登記手続きも完了済み。ところが、買主からの売買代金が一円も支払われていないというのだ。
普通なら契約不履行で民事訴訟だろう。だが彼の様子はどこか躊躇しているようで、なぜか訴えを起こすのをためらっている。サトウさんがこっそり耳打ちしてきた。「これ、領収書だけが先に出てる可能性ありますね」と。
シンドウは思わずうなった。確かに、それが本当なら事件の核心は領収書にある。
違和感のある売買契約
コピーされた売買契約書には「売買代金〇〇〇万円、支払日は令和五年五月一日」と明記されていた。日付は今日から三か月前、領収書にはその翌日の日付がある。
しかし、シンドウの頭にはひとつの引っかかりがあった。買主の署名筆跡が、契約書と領収書で微妙に違っていたのだ。まるで誰かが別の人物の筆跡を真似たような、不自然な癖。
この契約、ただの未収では済まされない気配がする——。
登記済権利証と古びた領収書
さらに不審だったのは、登記済権利証の提示がなかったことだ。買主は登記が終わったあとも、法務局で名義変更されたことに関心を示さず、住民票の写しすら出していない。
そして領収書。使い古した帳簿から切り取られたような紙には、朱肉で押された印鑑があったが、それが妙に新しい。紙は古びているのに、印影だけが鮮やかだった。
サトウさんはスッと立ち上がり、コピーをスキャンしながら呟いた。「たぶんこの紙、日光で焼いたわね。偽装です」
サトウさんの冷静な分析
「この事件、金の未払いが主題じゃないです。登記と領収書、そして行方不明の買主。全部つながってます」
サトウさんはいつもの調子で淡々と資料を並べていた。彼女の目の前には、3つの売買契約書があった。どれも微妙に違う筆跡と印鑑。
「これ、全部日向さんが自分で書いたんじゃないですかね。買主が最初から存在してない可能性、ありますよ」
重要なのは日付の不整合
領収書の日付が支払日よりも後になっているが、入金記録が存在しない。それが何を意味するか。買主が振り込んでいないのではなく、そもそも存在していない。領収書は、自分に金が入ったように見せかけるための道具だった。
「つまり、第三者に『自分は金を受け取った』と見せる必要があった……誰に?」
サトウさんの問いに、シンドウは答えを出せなかった。ただその背後に、税務署とか、債権者とか、そんな影がちらついていた。
シンドウのうっかりと気づき
その日の夕方、古い自分の過去案件を確認していたシンドウは、ある登記ミスに気づいた。数年前、似たような名義の土地で、別の売買案件を処理した記憶があった。
「あれ?これ……地番違うのに、同じ名前の買主になってる……」
偶然か、それとも意図的か。いずれにせよ、買主の名前はでっちあげであり、存在しない人間の可能性が濃厚となった。
やれやれ、、、でも間違いは役に立つ
自分のうっかりミスに落ち込んでいたが、今回はその「ミス」が逆にヒントとなった。登記情報を精査すれば、虚偽登記の線が見えてくる。登記済証も偽造なら、重大な法的問題になる。
「やれやれ、、、またとんでもない地雷を踏んじまったな……」とシンドウはため息をついた。だが、司法書士としての血が騒いでもいた。
これはただの金の問題じゃない。犯罪の匂いがする。
再調査と真実への糸口
市内の金融機関をあたった結果、買主名義の口座は存在しなかった。というか、同姓同名の人物すら住所地に住んだ記録がない。
登記名義を偽装して、土地を「売却済み」に見せかけた理由。それは、日向が土地を担保に借金をしようとしていたことに由来する。
「登記を済ませれば、あとは金を貸す側が信じる。うまい話ですね」サトウさんが皮肉を言う。
預金口座の名義が語るもの
唯一あった関連口座は、彼の親族名義のもので、そこに「売買代金返金」と記載された振込があった。まるで一度支払ったように見せかけ、あとでこっそり戻したような形跡だ。
第三者を欺くための帳簿操作、そして登記と領収書による「合法の仮面」。全てが組み合わされていた。
真実の価値を知るには、紙の裏側を見る目が必要なのだ。
事件の真相と裏の目的
真相はこうだ。買主は存在しない。日向は土地を売却したように装い、税務調査や金融調達から逃れる工作をしていた。領収書も、登記も、全てその偽装の一環だった。
シンドウは警察と連携し、虚偽登記と詐欺未遂の線で通報。法務局にも報告し、登記の職権抹消を依頼することとなった。
「司法書士がやれることは限られてるけど、見逃すわけにはいかない」
売主による計画的未収戦略
本件は、売主自らが買主をでっちあげ、金を回避したふりをして金融取引の材料に使おうとしたものだった。領収書は、その証拠を仕組むための小道具にすぎなかった。
事件は未遂に終わったが、サトウさんはボソリと呟いた。「こういう人、もっといますよ。紙を信じすぎる人間って、案外カモになる」
真実の価値を知るには、紙の裏側を見る目が必要なのだ。
司法書士が動くべき瞬間
登記情報の修正手続き、法的助言、刑事告発書の作成。事務所は数日間、まるで刑事ドラマのような慌ただしさだった。
「俺たち、探偵でもないのに探偵みたいなことしてるな」
「探偵より面倒なことしてますよ」とサトウさんは涼しい顔で言った。
登記の補正と刑事告発
事件は警察に引き渡され、登記も抹消された。被疑者である日向には追徴課税も待っているだろう。紙の力で人を欺く時代は終わった——そんな象徴的な一件だった。
司法書士という立場が、時に正義の一端を担う。その重さを、シンドウは改めて感じた。
もう一度コーヒーを淹れ直し、今日もまた誰かの「嘘」と向き合う準備をする。
サトウさんの一言と終幕
「領収書って、最後に渡すものであって、最初に作るもんじゃないですよね」
シンドウが苦笑いすると、サトウさんは続けた。「今回の事件、領収書が最後の証拠になりましたね。タイトル、ぴったりです」
「そうかもな……やれやれ、、、」
カップに残ったコーヒーは、すっかり冷めていた。