電子の扉が開かない朝
出勤早々の異変
パソコンの電源を入れ、司法書士会のポータルにアクセスしようとした瞬間、僕の指が止まった。電子証明書が認識されていない。昨日まで問題なく使えていたのに、今朝は違った。液晶画面に「証明書が見つかりません」という表示が、まるで薄笑いでも浮かべるように僕を見つめていた。
コーヒーの香りすら霞むほどの不安が胸をよぎる。僕は椅子に沈み込みながら、背後の気配に気づく。
ログインできない違和感
「また何かやりました?」サトウさんの声は相変わらず冷たいが、頼もしい。僕は振り返りもせず答える。「やってない……はずなんだよ。昨日までは大丈夫だったんだよ、ほんとに……」
「言い訳はサザエさんのカツオ並みに見苦しいですね」彼女の言葉が胸に刺さる。けれど、その的確さに内心少し助かっていた。やれやれ、、、また面倒ごとか。
電子証明書は語らない
パスワードの入力失敗
何度やっても「ログインに失敗しました」。電子証明書の再挿入、パスワードの確認、ブラウザのキャッシュクリア——できる限りのことはすべてやった。でも、結果は同じだった。
何かが変だ。これは機械の不具合ではない。人為的な「何か」が仕掛けられている気がした。
サトウさんの冷静な視線
「電子証明書の履歴、見ていいですか」彼女は僕の許可も待たず、手元のタブレットで何かを確認し始めた。しばらくして、彼女の眉がわずかに動いた。「ログイン履歴、今朝の5時に使用履歴があります。……先生、起きてました?」
そんな時間に僕は夢の中だった。いや、夢すら見ないほど泥のように眠っていたはずだ。
もう一人の司法書士
申請履歴に残る見知らぬ操作
ポータルの提出済み書類一覧には、見覚えのない登記申請が一件あった。しかも、僕の事務所名義で。
「こんな依頼、受けた覚えない……」口にした自分の声が震えていた。電子証明書が他人に使われた?そんな馬鹿な話があっていいのか。
なりすましの手口
申請に添付された委任状と本人確認書類は、どれも完璧に見えた。だが、よく見るとフォントの違いや微妙なズレがある。犯人は、本物の情報に非常に似せた偽造書類を使っていた。
この手口……昔読んだ『キャッツアイ』に出てきた、贋作と本物をすり替える話を思い出した。
印鑑証明と不審な送信元
提出済みのはずの書類
印鑑証明書の提出履歴は確かにあった。しかし、申請に使われたものとは印影が微妙に異なる。偽造されたものだと直感した。問題は、なぜこんなことが可能になったかだ。
「もしかして、USBのバックアップ……」僕は先週カフェで仕事をしていた時のことを思い出した。
アクセス元は別の町から
法務局に確認をとると、アクセス元は隣県の町からだった。電車で1時間ほどの、あの時立ち寄った駅に近いエリアだ。
USBメモリを挿しっぱなしにして席を立った、あの一瞬。やられたのは、あの時かもしれない。
不在の依頼人
電話がつながらない
申請に記載された依頼人の連絡先に何度電話しても応答はなかった。郵送された委任状も、投函先は貸し住所サービスだと判明した。
偽名、偽の書類、偽の依頼……完璧なまでの偽装だった。
嘘の住所と偽の戸籍謄本
提出されていた戸籍謄本も、検証すると一部加工されていた。どうやら専門的な知識を持つ者が犯人の背後にいるらしい。
電子申請を悪用した、新たなタイプのなりすましだ。静かに、しかし確実に進行していた。
サザエさんと仮想の家族
アニメのような名前の申請者
ふと目に留まった申請者の名前。「磯野カズオ」。……サザエさんの弟と同じ名前だ。まさかとは思ったが、これも偽装の痕跡か。
ふざけているのか、それとも暗号のつもりか。いずれにせよ、犯人は電子世界の中で、僕たちをからかっている。
過去にもあった類似の申請
調べを進めると、他県でも同様のなりすまし申請が確認された。そのすべてに、アニメのキャラクターに似た名前が使われていた。
犯人は、どこかで笑っている。法の隙間を、軽やかに泳ぐルパンのように。
法務局からの警告
アクセス履歴の提供依頼
法務局から正式な照会が入り、こちらからもアクセス履歴とログデータを提出した。事件としての捜査も始まることになった。
しかし、それまでにこちらでできることは限られている。セキュリティの見直しと、依頼人への注意喚起くらいだ。
不正利用の前兆
「今回が最初じゃないかもしれませんね」とサトウさんは言った。「今後の依頼も、慎重に見た方がいいと思います」
やれやれ、、、本当に気が抜けない時代になったものだ。
鍵を握るログ記録
午前3時の謎のアクセス
調査で判明したのは、午前3時という奇妙な時間に限定して行われていたアクセス。しかも、すべて公衆WiFiからだった。
犯人は足跡を残さないよう、非常に慎重に動いていた。だが、わずかなミスが致命傷になる世界でもある。
一度だけ使われた別の端末
不審なログインに使用された端末IDは、今回一度きりしか使われていなかった。つまり、犯人は使い捨ての機材を使っていたということになる。
プロの仕業だ。僕たちは知らぬ間に、電子の裏社会に足を踏み入れていたのかもしれない。
見えない犯人の姿
依頼人の名前を語る誰か
なりすましは、単なるデータの問題ではない。依頼人の信頼、司法書士の責任、そのすべてを揺るがす犯罪だ。
画面の向こうにいる「もう一人のログイン者」が誰なのか、今はまだ分からない。ただ、このままでは終わらせない。
やれやれ、、、また厄介な仕事だ
コーヒーを飲み干し、深く息を吐く。外はまだ朝の空気が残っている。今日は、また新しい依頼が舞い込む日だ。
次の「もう一人」に出会う前に、できるだけ備えておきたい。それが、今の僕にできる唯一の反撃だった。
そしてログインは封じられた
犯人の特定と申請の無効処理
数日後、法務局から通知が届いた。IP追跡の結果、犯人と見られる人物が逮捕されたとのこと。申請は正式に無効とされた。
ふぅ……肩の力が抜ける。だが、また似たような事件が起きない保証はない。
サトウさんの小さな笑い声
「先生、USBは首からぶら下げておきましょうね」サトウさんが珍しく笑った。小さな笑い声が事務所に響いた。
その声を聞きながら、僕は次の依頼フォルダを開く。やれやれ、、、まだまだ仕事は終わらないらしい。