朝の電話と消えた名義人
「先生、今朝銀行から電話がありました」と、サトウさんが冷たい声で言った。彼女の声のトーンで、これは面倒な案件だとすぐにわかった。やれやれ、、、今日はコーヒーが一杯じゃ足りそうにない。
電話の主は、地元の旧姓で呼ばれるほど古い地方銀行の職員だった。曰く、「登記名義人が不明の土地の仮登記を確認したい」とのこと。ふつう、そんなものは確認して終わる話だが、名義人がどうしても特定できないらしい。
どうせまた、明治時代のまま放置されたような案件だろうとタカを括っていたが、サトウさんは既に法務局で資料を請求していた。どうやら、彼女の「怪しいセンサー」に引っかかったようだった。
古びた地元銀行からの一本の連絡
電話をかけてきたのは、いかにもな定年間際の銀行員で、語尾がやたらと丁寧だったが、内容は不明瞭だった。「念のため」と何度も繰り返すのが気になった。こちらとしても、相手の「念のため」に付き合うほど暇ではない。
だが、土地の所在地を聞いた瞬間、思わず背筋が伸びた。そこは、10年前に別の登記で関わったことのある場所だった。偶然にしては出来すぎている。
さっそく登記簿謄本を確認してみると、仮登記が一件、名義人の記載が途中で切れている。登記官が間違えたにしては不自然だ。
サトウさんの睨んだ違和感
「この仮登記、平成元年の日付なんです。しかも仮登記義務者が法人なのに、当時もう解散してる会社なんですよ」とサトウさん。目ざといにもほどがある。私はその会社名すら覚えていなかった。
法人番号を調べてみると、確かに解散済。しかも清算結了になっていない。これでは、誰に抹消を依頼すればいいのかも分からない状態だ。いわば、宙ぶらりんな亡霊のような仮登記だ。
「仮登記を残したままにしておくメリットがあるとしたら……?」と私が呟くと、サトウさんは「悪用する気になれば、ありますね」と即答した。
古い登記簿と怪しい委任状
関係資料を地元の法務局から取り寄せた。すると、出てきたのは手書きの委任状と、印鑑証明書のコピー。どちらも古びており、紙が黄ばんでいた。
しかし、委任状の日付は数年前と新しい。筆跡も妙に整っていて、書道の教科書のような美しさだった。「こんな綺麗な文字、実務じゃまず見ませんね」とサトウさんが苦笑する。
印鑑証明書の発行年月日と委任状の日付が合わないことに気づいたのも、彼女の指摘だった。やれやれ、、、どっちが司法書士なんだか。
平成元年の謎の仮登記
登記記録によれば、当該仮登記は「所有権移転請求権保全」の目的でなされていた。だが、それに続く本登記はどこにも存在していない。
普通なら仮登記の後に本登記がなされるか、時効で無効になるはずだ。それが30年以上も中途半端に残っている。この時点で、もうただの登記ミスではないと確信した。
サトウさんの目がますます鋭くなる。私が黙ってコーヒーを啜っていると、「飲んでる場合じゃないですよ」と一喝された。
筆跡と印鑑証明のすれ違い
司法書士会に照会したところ、当時の仮登記申請に関わった人物は、すでに廃業していた。筆跡照合のため、過去の登記申請書を取り寄せた。
結果は明白だった。今回提出された委任状の筆跡と、過去の申請書のそれとは全く異なるものだった。模倣にしても雑すぎる。やる気があるのかないのか。
「これ、誰かが“それっぽい書類”を作って動かそうとしてますね」とサトウさんは冷静に言った。彼女の言葉に、私の背中がぞわりとした。
依頼人の言い分と沈黙
依頼人として現れたのは、地元の資産家の娘を名乗る女性だった。立ち居振る舞いはしっかりしていたが、どこか嘘くささが漂っていた。
彼女の話によれば、「母親が高齢で登記のことを覚えていない」とのこと。しかも、その母親は現在、施設に入所していて直接の確認が取れない状況だという。
電話をかけて確認を取ったが、施設職員の話では「ご本人は応答が困難な状態」とのことだった。死人に口なし、という言葉が頭をよぎった。
娘が勝手にやったと言い張る母親
後日、ようやく施設にて母親と直接会うことが叶った。認知症の進行はあったが、かすかに反応を見せた。「娘が勝手にやった」と、うつろな目でつぶやいたその一言が全てだった。
これ以上の追及はできなかったが、我々には十分だった。これは、典型的な「家族内での勝手な名義操作」だ。サザエさんでいえば、波平の印鑑をこっそり借りて不動産売買しているような話である。
世知辛い世の中だ。
不動産屋が握っていた鍵
事件はこれで終わらなかった。地元の不動産屋がすでにこの土地を「商談中」として扱っていたことが判明したのだ。しかも、仮契約書まで作成されていた。
登記が済んでいない土地を、まるで自分の持ち物のように扱っている。もはや詐欺まがいの行為だ。シンドウ事務所が動いていることを知っていたのか、不動産屋の対応は妙に強気だった。
「法律的には問題ありませんから」と言い切る態度に、私は久しぶりにイラッとした。
なぜか先回りしていた業者
不動産屋の代表者は、この土地の件で以前から動いていたらしい。裏で依頼人と話がついていた可能性が高い。こういう時、司法書士は厄介者扱いされる。
「書類さえ揃えばいいんで」との言葉を聞いた時、私ははっきりと敵意を感じた。彼らにとって法令順守など関係ないらしい。
とはいえ、こちらにも武器はある。仮登記の有効性と、手続き上の瑕疵を一つひとつ突き詰めていけば、いずれ化けの皮は剥がれる。
サトウさんが導いた答え
サトウさんがついに見つけた。「訂正印の押し方が逆です。これ、どう見ても後から押してますよ」と言った。細かすぎて私にはわからなかったが、彼女は何かを確信していた。
「これを押した人、文書の内容を知らなかったと思います。つまり、誰かが勝手に書類を差し替えた証拠です」と断言した。事務所の空気がピリッと変わった。
ここまで来れば、あとは不動産屋と依頼人の間にあった不正のつながりを証明するだけだった。
事件の顛末と依頼人の決断
行政書士と連携し、不動産取引の実態と委任状の偽造を証明した。我々の報告を受けた司法書士会も動き、仮登記の抹消と土地の権利確認が正式に開始された。
依頼人は追い詰められ、最終的に「母親のためにやった」と認めた。不動産屋は逃げの一手だったが、宅建業法違反で行政処分が下される可能性が高い。
やれやれ、、、事件が終わっても、心は晴れない。誰も幸せにならない終わり方だった。
事務所に戻ると、いつもの塩対応
事務所に戻ると、サトウさんが淡々と机を片付けていた。「先生、今日の打ち合わせはあと三件です」と言う声が冷たく響く。
私はひとつため息をついて、椅子に沈み込んだ。世の中は、やっぱりサザエさんのエンディングのようにはいかないらしい。
だが、誰かがやらなきゃいけない仕事だ。そう思って、私は書類に手を伸ばした。