更正登記の依頼
事務所に入ってきたのは、春先の風のように軽やかな女だった。服装はシンプルだが、どこか都会的な雰囲気がある。
差し出された名刺には旧姓が記されていたが、提出された登記簿には別の姓が載っていた。
彼女の言葉によれば、名字を変えるための更正登記をお願いしたいということだった。
旧姓のままの登記簿
「このままだと不便でして」と依頼人は笑ったが、私はその笑みに違和感を覚えた。
登記名義の更正はよくある仕事だが、彼女のような若くて美しい女性が一人で登記簿を持ってくるのは珍しい。
元夫との共有名義だったはずの土地。なぜ今、それを単独名義にするのか――。
離婚と再婚を繰り返す依頼人
雑談の中で、彼女はさらっとこう言った。「前の前の夫とは今さら付き合いなんてないんですけど」
いや、”前の前”? 再婚歴があるのは自由だが、登記上の整理はそれほど簡単ではない。
戸籍と登記簿が一致しないと手続きは進められない。ここからが面倒な仕事の始まりだ。
相談室に流れる違和感
「つまり、離婚はしてるけど、登記はそのままということですね?」
私は念のため確認したが、依頼人は首をかしげた。
「そういうことになりますかねぇ」
どこかとぼけた口調だったが、それが故意なのか無知なのか判断できなかった。
笑顔の裏に隠された緊張
彼女は終始にこやかだったが、どこか台本通りに話しているような印象を受けた。
こういうとき、私は自分の直感よりサトウさんの観察力を頼りにしている。
休憩時間、こっそりサトウさんに「どう思う?」と聞いてみた。
変更申請に潜む不整合
「登記原因が妙ですね」とサトウさんは言った。「離婚による持分移転登記がなかったんです」
つまり、離婚はしていても登記上は未処理のまま。
しかも今回の申請は「表示の訂正」であり、本来の所有権移転の筋とは異なる。
サトウさんの冷静な指摘
「これは更正登記ではなく、実体と異なる名義変更の偽装に見えます」
私はその言葉に背筋が伸びた。
やれやれ、、、このパターンか。現場で言えばファールだが、法務局では見逃してはもらえない。
登記簿と戸籍のズレ
彼女の戸籍謄本には離婚後に改姓した記録が残っている。しかし、提出された登記簿謄本は変更されていない。
登記と戸籍のズレは珍しくないが、今回のケースは意図的なものを感じる。
少し調査すれば、もう一人の登記名義人の現在の所在もわかるだろう。
旧姓に戻さなかった理由
「実は、前の主人が亡くなりまして」
彼女はふと視線を逸らしてそう言った。なるほど、それで今さら単独名義にして保険金請求か。
しかし、保険金の受取人はすでに変更できない。つまり、土地の名義だけでも手に入れようとしているのか。
現場検証と過去の住所
調査のため、私は昔の住所を訪ねた。サザエさんの家のような、どこか昭和のにおいが残る一軒家。
だが、表札は変わっていなかった。旧姓のまま、男の名前が残されている。
この違和感が、すべてのヒントだった。
表札が語る別の名義
登記上の住所に住んでいるのは、依頼人ではなかった。彼女の「前の前の夫」――つまり、別の人物だったのだ。
今回の更正登記は、他人の名義を使っての不正な手続きの可能性がある。
私は急いで役所に調査を依頼した。
元夫が名義人のまま
結果、登記名義は依頼人の話とは違い、元夫の単独名義だったことがわかった。
しかも、死亡届なども出ていない。
生きている名義人の同意なしに更正登記などできるはずがないのだ。
偽装登記と保険金の関係
調べを進めると、元夫名義の不動産には高額の火災保険がかけられていた。
依頼人が住むマンションで先月、火災が発生したという報告書が見つかった。
もしや、これは保険金詐欺のための名義工作なのか――。
恋の再燃ではなく遺産目当て
「やり直したかったんです」彼女は最後にそう言ったが、その目に涙はなかった。
恋ではなく、目的は明確だった。名義と保険金。
更正登記は、彼女にとって「愛の証」ではなく、手段だった。
訂正されたのは恋ではなかった
法務局に申請は却下され、虚偽申請の疑いで調査が開始された。
もちろん私は被疑者ではない。だが、また仕事が増えたのは確かだ。
恋も登記も、やり直すには正しい手続きが必要だ。
真の目的と名義変更の行方
結局、登記は訂正されなかった。彼女の思惑も、恋のやり直しも、書類上では叶わなかった。
だが私は一つ学んだ。名義は紙の上だけのものではない。
それがどれだけ重いものか、知っている者だけが正しく扱えるのだ。