はじまりは一通の登記簿謄本から
「ちょっと見てもらいたいものがありまして」そう言って男が差し出したのは、やや黄ばんだ登記簿謄本のコピーだった。表紙には、ある地方都市のとある地番が記されていたが、妙に気になる点があった。
「仮登記…?」ぼそりとつぶやいた私に、男はこくりと頷いた。「この土地の名義人、三十年も前から仮登記のままなんです」
仮登記――それは言わば、法的に宙ぶらりんな状態を意味する。だが問題は、その“仮”の持ち主が誰なのか。誰も、正確に答えられないのだった。
奇妙な名義と依頼人の不安
登記簿に記された名前は、聞いたこともない人物のものだった。依頼人である男の父が、その土地の現所有者だというが、どうやら何らかの事情で名義変更がなされていなかったらしい。
「売買契約もあったらしいんですが、書類がもう残ってなくて…」男の声は震えていた。古い木造住宅が建つその土地には、今も父親が住んでいるという。
不動産の問題は、時として人の心をも縛りつける。「相続の前に、なんとかできませんか?」彼の問いに、私は静かに頷いた。
サトウさんの冷静な一言
「これは、かなりやっかいですね」書類を一目見て、サトウさんはそう言った。彼女は端末をすばやく叩き、法務局のオンラインシステムから補完情報を引き出していく。
「仮登記の日付が昭和の終わりですね。しかも、登記原因が ‘売買予約’ になってる。しかも登記名義人、所在不明です」
私は肩を落とした。「つまり、実質的には幽霊名義だな。やれやれ、、、サザエさんのエンディングで波平が行方不明になるくらいの不可解さだよ」
旧家の土地に残る仮登記
私は現地へ足を運んだ。坂の途中に佇むその家は、まるで時が止まったかのように、静まり返っていた。壁はひび割れ、庭には雑草が伸び放題だった。
ふと、裏手にまわると、古びたポストに誰かが最近投函した痕跡があった。誰かがこの家に出入りしている――その直感は、的中することになる。
玄関前には、誰かが立てかけた杖があった。依頼人の父が使うには、どうも新しすぎる代物だった。
登記簿に刻まれた名前の謎
登記簿に記された“仮登記名義人”の名前は、村井慎一。昭和の終わりに、その人物によって仮登記がされていたが、以後の記録は一切存在しない。
ネットで検索してもヒットせず、住所も転居済。戸籍も除かれているという。司法書士として慣れているはずの私も、この消え方には首をひねった。
「サトウさん、こういうのって……もしかして、架空名義?」すると彼女はため息混じりに答えた。「あるいは、名義貸しですね。昔はよくあったことです」
権利証なき名義人
依頼人の父は、高齢で認知症の兆候があり、過去の契約内容は曖昧だという。さらに権利証(登記識別情報)も見つかっていなかった。
「契約はしたけど登記が完了しなかった。そのまま時間だけが経った、ってことか」私はそう呟いた。だが、契約相手が実在していたかどうか、確証はない。
もはや、この家の過去を語れる者は少なかった。そしてその“過去”こそが、事件の根源だった。
調査開始と浮かび上がる過去
私は旧地元の図書館に足を運び、地元紙の縮刷版をあさった。昭和の終わり――ちょうど仮登記のされた年に、ある小さな記事が目を引いた。
「市内で不動産取引に関わった男が失踪」そう見出しにあった。名前は――村井慎一。まさに、仮登記の名義人だった。
この記事によれば、村井は数件の土地の仮登記を連続して行った後、姿を消していた。関係者は詐欺を疑ったが、結局、逮捕には至らなかったという。
バブル期に失踪した男
バブル期、仮登記を利用した詐欺は少なくなかった。特に「予約登記」として名義を仮押さえし、転売を繰り返す手口が横行していた。
村井慎一もその一人だったのだろう。そして、何らかの事情で取引が頓挫し、そのままこの家の仮登記だけが残された。
つまり、依頼人の父は、その“仮”の名義のまま、実質的にこの土地に暮らし続けていたのだ。
登記簿の余白に潜む嘘
私は法務局に足を運び、原本を確認した。仮登記の欄には、通常よりやや小さく、薄い字で補記がされていた。
「仮登記権利消滅確認書類未提出」つまり、仮登記の効力を消滅させるための証明がなされていなかったということだ。
それにしても、なぜ誰もその手続きをしなかったのか。サトウさんがぽつりと言った。「多分、誰にも片づけられなかったんですよ。この土地の嘘も、過去も」
隣人が語る真実と虚構
その家の隣に住む老婆が、話しかけてきた。「あの男、よう来とったよ。スーツ着て毎晩のようにねえ」
村井の姿を最後に見たのは、三十年前。老婆の話では、彼は“売るために人を探していた”らしい。「この土地、元は別の人のもんやったのよ」
その言葉に、私は背筋が冷えた。仮登記の背後には、単なる契約不履行以上の闇がある――そう確信した。
廃屋に通う人影
数日後、私は再びその家へ向かった。夕暮れ時、遠くから誰かが廃屋の中に入る姿を見た。黒いコートの中年男だった。
こっそり尾行すると、彼は床下からなにかを取り出していた。書類の束。昭和の契約書や領収書、村井の名刺まであった。
「まさか、まだ関係者がいたのか」私は足音を立てないようにその場を離れ、すぐに警察に通報した。
昭和の契約書が語るもの
後日、警察の調査により、男は村井のかつての部下だったことが判明。土地の証拠書類を回収しに来たという。
「うっかりあんなもの残してたせいで…」男はそう呟いたらしい。過去を隠し続けた者たちの終わりが、ようやく訪れた。
そして仮登記の名義は、職権で抹消されることになった。依頼人の土地は、ようやく本当の意味で“自由”になった。
仮登記の裏にあった取引
村井の仮登記は、裏での資金洗浄や名義貸しのために利用された疑いが強い。だが本人はとうの昔に死亡しており、罪は問えなかった。
残されたのは、登記簿と記憶、そして一つの家だけだった。誰も片付けようとしなかった仮の名義が、ようやくこの世から消えたのだ。
「司法書士ってのは、名義の向こうにある人間の業を、見せられる仕事なんですよ」私は誰にともなくそう呟いた。
不動産業者と名義貸し
さらに判明したのは、当時の不動産業者が複数の土地で同様の手口を使っていたことだった。村井はその駒の一つに過ぎなかった。
仮登記という法の隙間が、誰かの私腹を肥やすために使われる。その歪んだ構図は、今も完全には消えていない。
「サザエさんの時代じゃないんですけどね」サトウさんが皮肉気に言った。
失われた証明書と偽名の構図
最終的に、登記の正当性を補完するための書類一式が発見された。それによって、依頼人の父の権利が正式に確定された。
仮の名義、仮の契約、仮の家族。だが、その中に生きてきた人の人生だけは、本物だったのだ。
「やっぱり、書類は捨てちゃダメですね」サトウさんがぼそりと漏らした。私はただ、深く頷いた。
終わりなき仮の所有権
事件は終わった。だが、私のデスクにはまた、新しい謄本が置かれていた。そこにも、見覚えのない“仮登記”の文字。
「やれやれ、、、この世から“仮”がなくなる日は来るのかね」私はコーヒーを啜りながら、次の謎に挑む覚悟を決めた。
それでも、書類の向こうにある誰かの物語に触れるとき、私はこの仕事にほんの少しの誇りを感じるのだった。