名前を変えなかった女
不審な登記簿の依頼
その朝、机の上に置かれた一通の封筒から全てが始まった。依頼人は中年の男性で、亡くなった姉の不動産の相続手続きに関する相談だった。
登記簿を確認すると、被相続人の名前が旧姓のままだった。何か引っかかるものを感じた。
結婚していたはずの女性が、なぜ旧姓のまま登記を残したのか——司法書士として、放っておけない違和感がそこにあった。
旧姓のままの名義に違和感
登記簿には「サエキユキコ」とあった。しかし、依頼人は「姉は結婚して名字がカワムラになったはず」と話していた。
なぜ名義は変わっていないのか。登記変更の申請漏れ?それとも意図的なものなのか。
塩対応のサトウさんが、目を細めながらぼそっと言った。「わざと変えなかったんじゃないですか?」
遺産分割協議が始まった
依頼人を中心に、兄弟姉妹数人が集まり、遺産分割協議書の作成を始めた。ところが、全員が驚く発言を口にした。
「あの土地、姉の名義だったんですか?てっきり義兄のものかと……」
生前の生活実態と登記内容にズレがある。これは普通の相続じゃなさそうだ、と僕は感じた。
戸籍を追うと見えてくる謎
僕は役所で戸籍謄本を取り寄せた。確かにユキコさんは結婚していた。しかし、婚姻届は出されていたが、姓は変えていなかった。
職業欄には「フリーライター」とある。筆名の関係で旧姓を通していた可能性もある。
けれど、それだけでは説明のつかないことがある。なぜ名義変更もせず、相続の準備も整えないまま逝ったのか。
名前を変えなかったのは誰か
名義に残された名前は、ユキコ本人の強い意思の表れなのか、それとも他人の手によるものなのか。
僕は依頼人に聞いた。「お姉さん、何か秘密を抱えていませんでしたか?」
依頼人はしばらく沈黙し、ゆっくりとうなずいた。「…あの人、結婚したふりをしてただけかもしれません」
姉か妹か登記の中の二重生活
ふと気づいたのは、戸籍にはもう一人のユキコが存在していたことだった。
年齢も似ている、出生日も近い、だが違う家庭に生まれた女性。
「これは別人の登記では?」とサトウさんが鋭く指摘した。まさか、他人の名義を借りて生活していた?
サトウさんの違和感
「サトウさん、なんでそんなにこの案件に詳しいの?」
僕の問いかけに、彼女はふっと目をそらした。
「知人に似たような話があっただけです」そう言ったが、机の下で握られた拳が震えていたのを僕は見逃さなかった。
名義変更をしなかった理由
旧姓を名乗り続けたのは、過去の経歴を伏せて生きるためだった。
かつてユキコはストーカー被害に遭い、別人として人生をやり直す道を選んだ。
登記名義を変更しなかったのは、彼女なりの「盾」だったのだ。
現れたもう一人の依頼人
突然、事務所に現れた女性が言った。「その不動産、私が買った土地なんです」
聞けば、売買契約書には確かに「サエキユキコ」の名前があった。印鑑証明もある。
でも、その女性はユキコ本人ではなかった。
司法書士としての疑問
売買が行われたのは十年前。名義人は既に死亡している。にもかかわらず取引が成立していた。
誰かがユキコを偽って取引を行った。サインは似ていたが微妙に違っていた。
「やれやれ、、、こういうのが一番面倒なんだ」僕は椅子にもたれながら深いため息をついた。
過去の不動産取引に隠された事実
僕たちは過去の登記変更履歴を洗い出し、売買契約書を精査した。
すると、第三者の司法書士の関与が出てきた。調べてみると、懲戒処分を受けて廃業していた。
偽造登記が横行していた時期だった。その一件もその流れにあったのだ。
嘘の住所と本当の相続人
実際にユキコが住んでいたのは別の市で、登記住所は形式上のものだった。
本当の相続人は、彼女がかつて保護した女性、その女性に全財産を譲るという遺言が存在した。
だが、公正証書遺言ではなく、自筆証書遺言。封も開けられていなかった。
やれやれ僕の出番か
最終的に、遺言を家庭裁判所で検認し、登記名義を訂正することとなった。
依頼人には事実を丁寧に説明し、理解を得るまで数時間かかった。
「やれやれ、、、ほんとに、手間のかかる登記だったよ」僕はぼやきながら、疲れた背中を椅子に預けた。
登記簿が語る女の決断
登記簿には、ただの文字が並んでいるだけに見える。
だが、その名前には人生が詰まっている。ユキコが何を守ろうとし、何を残そうとしたのか。
司法書士として、登記簿の奥にある物語を読み解くこと。それが僕の仕事だ。