朝一番の訪問者
静かな月曜と不穏な来客
八月の月曜、朝の事務所は妙に静かだった。蝉の鳴き声だけが、うるさく耳にまとわりつく。まだコーヒーも飲みきっていないその時、玄関のチャイムが鳴った。珍しく予約なしの訪問者だった。
ドアを開けると、黒いスーツに身を包んだ中年の男性が立っていた。目の奥に疲れが滲んでいて、ただ者ではない空気をまとっていた。「名義人が消えたんです」と、男は開口一番に言った。
依頼内容は失踪した名義人
男の話によれば、母親が所有していた土地を売却しようとしたところ、名義が見知らぬ名前に変わっていたという。しかも、その人物は戸籍にも住民票にも存在しない。いわゆる“ゴースト名義人”。
「司法書士の先生なら、登記簿の違和感がわかるはずです」と、男は言った。私にできることなど限られていると思いつつ、好奇心のスイッチは入ってしまった。やれやれ、、、また厄介ごとだ。
登記簿の不自然な空白
保存記録と改ざんの痕跡
法務局で登記簿謄本を取得すると、違和感はすぐに目についた。表題部の作成日と所有権移転の日付の間に、明らかに不自然な空白期間がある。その間に何かがあったのは間違いない。
さらに、オンラインデータにない古い修正履歴があった。紙媒体時代に何らかの操作がされた形跡が、薄っすらと残っている。まるで探偵漫画に出てくる、消しゴムで消された手紙のようだった。
表題部に浮かぶ違和感
表題部の地番が微妙にズレていた。本来の地番は「一丁目三番地二」であるべきところが、「一丁目三番地三」となっている。手書きでの誤記か、それとも意図的な操作か。どちらにしても、このズレが鍵だ。
事務所に戻ると、サトウさんがすでにPCで法務局の公図を開いていた。「ここ、境界が微妙ですね」と言って、冷たい目をこちらに向けた。いや、目が冷たいのはいつもだ。
名義変更の時系列
所有権移転と仮登記の謎
名義変更は20年前の仮登記に遡る。当時、売買による所有権移転の申請がされていたが、本登記は未了のままだった。だが仮登記された相手の名前が、今回の“消えた名義人”だったのだ。
仮登記の目的は確かに所有権移転だが、登記原因証明情報が存在しない。不思議なのは、申請人の司法書士の名前すら記録にないことだった。これは通常ありえない。
権利者が存在しない登記
この“消えた名義人”の氏名で検索をかけても、戸籍にも固定資産課税台帳にも記載がない。まるで漫画のキャラみたいに、この世に存在しない人物だった。いや、存在していた記録すら最初からなかったのかもしれない。
つまり、これは架空名義による仮登記。そしてそれを放置したまま月日が流れ、誰も気づかぬまま登記簿に刻まれた“影”となっていたということだ。
サトウさんの冷静な指摘
数字の並びが意味するもの
「この登記識別情報、偽物かもしれませんね」と、サトウさんがプリントアウトを机に置いた。よく見ると、登記識別情報の番号の配列に規則性がありすぎた。まるでダミーとして作られたパスワードのようだ。
司法書士である私の目をもってしても、それは単なる偶然とは思えなかった。サトウさんはさらに、「これは記号で作られた暗号だと思います」と続けた。探偵アニメのヒロインみたいなことを言う。
司法書士ならではの視点
司法書士の仕事は書類を整えることだけじゃない。こうした“過去の意図”を読み解くのも、仕事の一部だ。と、自分に言い聞かせながら、もう一度登記申請書の写しを取り出した。
筆跡が違う。仮登記申請書と、他の添付書類。明らかに別人の手によるものだった。
消えた本人確認情報
委任状の不在と押印の矛盾
押印がされているはずの委任状が見当たらない。法務局のファイルにもなく、関係者も「見たことがない」という。もしこれが偽造だとしたら、当時の登記官が何も気づかなかったとは思えない。
印影を拡大すると、朱肉の滲み方が不自然だった。誰かが印影を“作って”貼り付けた可能性もある。そこまでして名義を変えた理由は何なのか。
職務上請求書の悪用の可能性
さらに職務上請求書が悪用されていた痕跡もあった。私たち司法書士が扱うこの書類は、厳重に管理されるはずのもの。それが、明らかに第三者に流れていた。
一瞬、背筋に冷たいものが走った。これは登記だけでなく、士業の信頼そのものを揺るがす問題だ。
真夜中の法務局
登記官との深夜の対話
事情を知っている古株の登記官が、特別に夜間応対してくれた。彼は当時の担当者を覚えていて、「あの頃は紙だったからなあ…」と呟いた。紙と印鑑がすべてを支配していた時代の、盲点だった。
「もしかして、あの件かもしれません」と言って、彼は一枚の補正申請書のコピーを見せてくれた。そこには、今回の名義人の名前がうっすらと記されていた。
過去の訂正申請がカギを握る
補正申請書には、訂正の理由が「依頼人の事情により」としか書かれていなかった。まるで、すべてを闇に葬るための言い訳のようだった。
だがそれでも、確かにここに“その名義人”が存在していた証拠になった。登記簿に刻まれた影は、確かに誰かの手で書かれたものだった。
旧住所に残された証拠
見落とされた納税証明書
名義人の旧住所に足を運ぶと、取り壊し直前の家屋にかろうじて入り込むことができた。そこにあったのは、埃をかぶった納税証明書の束。その中に、一枚だけ妙な名前が混じっていた。
その名前は、仮登記の名義人と一致していた。手がかりがひとつ、現実世界に残されていた瞬間だった。
古い手帳に残されたサイン
押し入れの中から古びた手帳が見つかった。中には日記のようなものが走り書きされていた。最後のページに、簡単な署名があった。それが、仮登記名義人の筆跡と一致していた。
つまり、名義人は“存在していた”のだ。そして、誰かに利用されたのだ。
過去の登記申請と現在の不一致
他士業の関与と責任の所在
書類には行政書士の名前が記されていた。どうやら、当時の依頼者が安く済ませようと登記の準備だけを任せ、司法書士を通さず仮登記を申請した可能性が高かった。
本来であれば、司法書士が確認すべき重要事項もスルーされた。それが、現在の歪みとなって現れている。
なぜ司法書士の名前がないのか
仮登記の申請者欄に、司法書士の署名が一切ないことが、何よりの証拠だった。つまり、制度のスキマを突かれた事件だったのだ。
正しく運用されていれば、今回のような登記簿の“空白”は生まれなかった。
名義人の行方
生存情報と新しい戸籍謄本
ついに名義人の戸籍が判明した。別名で生活しており、名字を変えたあと国外に移住していたらしい。まさか、生きていたとは。人の運命というのは、登記簿一枚では測れない。
失踪ではなく、意図的な離脱。理由は語らなかったが、その目に後悔の色はなかった。
故意か偶然か 消えた理由
「家族から逃げたかった」と名義人は言った。家庭内トラブルが原因だったという。名義を消すことで過去も消したかった。その想いが、登記簿という公文書に刻まれていた。
それでも、彼の名前は確かに存在していた。法の隙間に、一人の人生が埋もれていたのだ。
登記簿の訂正と真相の結末
嘘の委任状と真実の供述書
訂正登記を申請し、本人の供述書を添えて処理は完了した。虚偽の委任状の件は刑事事件にはならなかったが、登記制度の甘さが改めて露呈した。
一件落着――とはいえ、モヤモヤは残る。だが、これ以上立ち入るのは野暮というものだ。
事件の陰にあった家族の秘密
すべてが終わった帰り道、私は空を見上げた。サザエさんのエンディングのように、なんだか全てが丸く収まったような気がしていたが、それは錯覚だったかもしれない。
それでも、名義人の人生が少しでも救われたのなら――そう思いながら、私は事務所の扉を開けた。するとサトウさんが一言、「今日も無駄に動きましたね」と笑って言った。やれやれ、、、もう慣れたけどね。