午前九時の来訪者
古びた封筒がもたらした違和感
ある火曜日の朝、事務所のドアがきしんだ音を立てて開いた。サトウさんが差し出した書類の束の上に、ひときわ目立つ古びた封筒が乗っていた。差出人は不明だが、裏に「登記簿確認依頼」とだけ書かれていた。
依頼人の目に宿る迷い
封筒の中には、一枚の仮登記簿の写しと手紙が入っていた。差出人は高齢の女性で、自宅の土地が誰かに勝手に売買されようとしているという。筆跡は震えており、その訴えにはどこか切迫したものがあった。
仮登記簿に記された謎の一文
サトウさんの冷静な観察眼
「先生、この地番、存在しませんよ」とサトウさんが指摘した。仮登記簿に記載された地番が、実際の法務局データベースに存在していない。にもかかわらず、登記簿は正式な様式に則って作成されているように見える。
失われた日付と存在しない地番
写しには確かに仮登記の日付が打たれていたが、その年のその日付には、管轄法務局で登記処理が一切行われていなかった。何かがおかしい。まるで、存在しない日をでっちあげて書類を通したようだった。
調査開始と不自然な売買契約
名義人の名前に見覚えがある
登記の名義人は「山野井政晴」。どこかで聞いたことがあると思ったが、すぐには思い出せなかった。調べていくうちに、以前詐欺事件で問題になった人物と一致することが判明した。
不動産業者の証言と矛盾
取引に関わったとされる不動産業者に連絡を取ると、「その登記は正式に処理された」と答えた。しかし、法務局に確認すると、そのような登記は受付されていないという。完全な食い違いだった。
隣人の証言と沈黙する町
かつての住人はどこへ
その土地の隣に住む老人は、「あの婆さんはもう三年前に町を出た」と言った。だが、手紙の日付は一週間前だ。仮に手紙が本物なら、誰がこの町に戻ってきたのか。なぜまた仮登記の話を持ち出したのか。
夜の町で交わされた噂
居酒屋の常連がこっそりと語るには、「あの土地は昔、誰かが勝手に墓を壊して建て売りを始めた」と言う。曰く付きの土地。怪談めいてきたが、むしろそこに何か登記を歪めるだけの動機があるのかもしれない。
サトウさんの推理が動く
地積測量図に隠された微細なズレ
「先生、ここの境界線、昔と違ってます」サトウさんは、十年前の測量図と照らし合わせて、境界線のズレに気付いた。数センチの違いだったが、それにより所有権が隣地に跨る形になっていた。
筆界未定の裏にあった真意
この土地は、かつて「筆界未定」として登記された履歴があった。その後、なぜかスムーズに境界が確定し、そのまま仮登記された。これが仕組まれたものである可能性が浮上した。
怪しい司法書士の過去
十年前の事件との一致
「山野井政晴」の名前をさらに深く調べると、十年前にも仮登記を悪用した詐欺事件で名前が挙がっていた。そしてその登記に関わった司法書士の名が、かつて自分が研修で出会った男だった。
再び浮かび上がる仮登記
問題の仮登記が申請された場所と、十年前の事件現場がほぼ一致していた。あの時の事件は結局、立証不十分で終わった。今度こそ、この男の尻尾を掴めるかもしれない。
資料室で見つけたもう一つの謄本
異なる筆跡が意味するもの
「やれやれ、、、」と呟きながら、閉館間際の資料室で調べていた時だった。偶然にも、別の案件のファイルに紛れて、もう一枚の登記簿写しが見つかった。そこには別人の筆跡で記された修正印があった。
遺された委任状に隠された鍵
その委任状には、かつて登記を申請した女性の名前と印影が残っていたが、同時に別の人間の名前が二重線で消されていた。つまり、誰かが彼女のふりをして委任状を作り直したのだ。
シンドウのうっかりが真相を呼ぶ
やれやれと思いつつ封筒を再確認
もう一度最初の封筒を見返すと、裏紙にうっすらと別の名前が透けていた。封筒が再利用されていたのだ。「シンドウ先生、これ裏返して見ました?」サトウさんの声に、冷や汗が背中を伝った。
印鑑の位置が示した事実
印鑑の押された位置が微妙にずれており、台紙の上からトレーシングペーパーで転写された可能性があった。つまり、委任状も仮登記簿も、すべて別人が偽造したものだったのだ。
犯人の動機と過去
家族のための偽装だったのか
山野井は、かつて所有していた土地を強制競売で失っていた。今回の偽装登記は、その土地を取り戻そうとした家族の復讐の一環だった。だが、その手段は明らかに一線を越えていた。
仮登記に託した思い
封筒の主は、かつてその土地で生まれ育った女性だった。彼女は自分の家族が失ったものを、形だけでも守りたかったのかもしれない。だが、真実を隠したままでは何も救われなかった。
真相解明とその代償
登記簿の整合と空白の理由
事件は警察に引き継がれ、仮登記は職権で抹消された。法務局も再発防止のために監査を強化することになった。だが、一度生まれた登記の記録は、完全に消えることはない。
事件が静かに幕を閉じる
事務所に戻ると、サトウさんはいつも通り淡々とファイルを整理していた。「先生、今日の午後は相談二件と、あとは墓地の地目変更の打ち合わせです」ああ、いつもの日常が戻ってきた。ほんの少しだけ、背筋を伸ばして椅子にもたれた。