普通の幸せが一番難しいと感じるこの頃

普通の幸せが一番難しいと感じるこの頃

司法書士としての日々に漂う違和感

気づけばこの仕事も20年近くになる。司法書士として独立してからは特に、日常の全てが業務に染まってしまったような感覚がある。決して嫌いな仕事ではないし、責任を持って取り組んではいるけれど、ふとした瞬間に、「これって普通なのか?」と思うことがある。世間では平穏に見える毎日が、私にとってはいつもどこか緊張と孤独に満ちている。それが「普通の幸せ」とは、あまりにかけ離れているように思えてならない。

ひたすら書類とパソコンとにらめっこ

朝、事務所に入るとまず書類の山に圧倒される。登記に必要な書類はミスが許されず、細部まで確認しながら作業する必要がある。日によっては一日中、誰とも話さずに書類だけを処理して終わることも珍しくない。パソコン画面を見すぎて目の奥が痛み、肩はガチガチ、昼食もコンビニで済ます。家に帰っても何もしたくなくなり、結局そのまま寝て、また朝が来る。ただ回しているだけの生活。そんな感覚が抜けない。

書いても書いても終わらない登記申請

とにかく、終わりがない。お客さんから見れば「一つの登記手続き」でも、こちらからすれば準備から申請、補正対応、完了書類の引き渡しまで、目に見えない工程が山ほどある。しかも法務局の方針や書式の変更、突発的なトラブルも日常茶飯事で、せっかく準備したものが一瞬でやり直しになることもある。「またか…」とため息をつきながら、黙々と入力し直す自分を、たまに天井から見下ろしているような気持ちになる。

感謝よりもクレームが先に届く現実

これは多くの司法書士が感じていることかもしれないが、トラブルがあるとすぐに連絡が来るのに、無事に完了した時には何も言われないことが多い。「当然の結果」だと受け止められているようで、ちょっと虚しくなる。感謝の言葉をかけてくれる方もいる。でも、それよりも「連絡が遅い」「なんでこんなに時間がかかるの?」といった言葉の方が心に残ってしまう自分に気づくと、また一つ、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。

普通の幸せって何だろうと考える瞬間

昔は「結婚して、子どもがいて、休日は家族と公園」なんていうのが、普通の幸せの象徴のように感じていた。でも、自分にはそのどれもがない。仕事が忙しいから、タイミングを逃したから、いろんな理由をつけてはきたが、本当はずっと、どこかでそういうものに憧れていたのだと思う。最近になって、それを素直に認められるようになった。

誰かと夕飯を食べることへの憧れ

コンビニ弁当やスーパーの半額惣菜を、ひとり事務所で食べる夕飯が当たり前になった今、「誰かと一緒に夕飯を食べる」ことの尊さを感じるようになった。特別なご馳走でなくてもいい。ただ、今日こんなことがあったとか、美味しいねとか、そんな他愛ない会話がしたい。誰かと食卓を囲む時間が、どれだけ心を支えてくれるのか。今ならよく分かる気がする。

コンビニの袋をぶら下げて帰る夜道

仕事を終えて事務所を出る頃には、たいてい夜の9時を過ぎている。手にはコンビニの袋。すれ違う人もほとんどいない静かな夜道を、黙って歩く。住宅街からはテレビの音や食器の音が漏れてくる。そんな生活音が、どこか遠くに感じる。自分の人生は、誰かと交わらないまま進んでいるような気さえして、ふと足を止めて空を見上げる。星がきれいだと思う反面、それを一緒に見上げる誰かがいないことに気づいて、また歩き出す。

仕事以外の話題が思いつかない自分

誰かと話していても、結局出てくるのは仕事の話ばかり。趣味や最近観た映画の話が自然に出てくる人を羨ましく思う。野球は昔やっていたが、今ではバットを握ることもない。気がつけば、休日も何かしら仕事の段取りを考えている。普通の人が普通に楽しんでいることが、自分にはどんどん縁遠くなっているように感じる。それに気づいても、何かを変える余裕も気力も、もうあまり残っていないのが正直なところだ。

元野球部だった頃の仲間と比べて

高校時代の野球部仲間とは、今も年に一度くらい集まる。みんなそれぞれの人生を歩んでいて、家庭を持ち、子どもの話やマイホームの話で盛り上がっている。そんな話題についていけない自分がいる。彼らに嫉妬しているわけじゃない。ただ、自分が何かを置いてきてしまったような、取りこぼしてきたような、そんな感覚が胸を締めつける。

家族を持ち趣味を楽しむ彼らとの距離

仲間の一人が「最近、息子とキャッチボール始めたんだ」と言ったとき、正直少しだけ羨ましかった。自分も昔、父とやったキャッチボールをよく覚えている。あの何でもない時間が、今になってはどれだけ価値のあるものだったか。自分には、そうやって誰かと未来を重ねる時間がないことに、改めて気づかされた気がした。

LINEのグループで浮いている自覚

野球部のLINEグループでは、子どもの運動会や家族旅行の写真が飛び交う。その中で自分だけ、投稿する話題がない。何か送っても、反応は「ふーん」で終わる。悪気がないのは分かっているけれど、そこにいるだけで、自分の居場所のなさが際立ってしまう。既読だけつけて黙っておくことが増えた。

それでもやめない理由を自分に問いかける

そんな毎日の中でも、この仕事を続けている理由がないわけではない。ときどき、心に残る言葉をもらえることがある。「あなたに頼んでよかった」「安心しました」そんな一言で、何日分もの疲れが少しだけ和らぐ。自分のしていることが、誰かの支えになっているなら、それだけで救われる思いがする。

感謝の一言が心に残ったある日のこと

以前、相続登記を任された高齢の女性がいた。手続きが終わって帰り際に、「これでやっと父のことを前に進められます」と涙ぐみながら頭を下げられた。その姿を見たとき、自分の仕事が単なる事務作業ではなく、その人の人生に関わる大きな節目を担っていたのだと実感した。あの日のことは、今でも忘れられない。

自分の仕事が誰かの安心になっているかもしれない

日々の業務は地味で報われにくい。でも、誰かにとって大きな意味を持つ「安心」を届ける仕事でもある。それは、表には出ないけれど、確かに存在している。そんな風に考えることで、自分自身を支えているところもある。だから、もう少しだけ続けてみようと思う。普通の幸せには届かないかもしれないけれど、自分なりの意味を見つけながら。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。