午後三時の登記簿
古びた喫茶店の注文書
商店街の外れにある昭和レトロな喫茶「トリコロール」で、僕はナポリタンとアイスコーヒーを頼んだ。午後三時。外は夏の熱気に満ちていたが、店内はどこか別世界のように涼しく、そして静かだった。昔の刑事ドラマに出てくるような赤いビニールの椅子が、なぜか落ち着く。
ナポリタンに絡む不穏な一言
隣の席から聞こえてきたのは、女性の低い声だった。「筆跡が、変わってるんですよね…亡くなった父のものじゃない気がして」。ふと視線を向けると、ワンピース姿の若い女性が謄本を片手に困ったような表情をしていた。ナポリタンの香りが、妙に重苦しい空気に変わった。
謄本を取りに来た女の靴音
「謄本、取ってきました」と言って事務所に戻ってきたサトウさんは、いつものように手際よく靴を脱ぎ、書類を机に置いた。「それと、この人です。喫茶店で会いました」。彼女の後ろから、あのナポリタンの女性が現れた。どうやら、午後三時は事件の始まりにふさわしい時間だったようだ。
登記簿の違和感
所有者欄の妙な訂正
書類を広げると、確かに不自然な訂正があった。字の癖も妙だが、それ以上に気になるのは、訂正の箇所が一カ所だけでなく、複数にわたっていたことだ。訂正印がかすれているのも気になる。まるで、訂正すること前提で作られたような、そんな違和感。
抹消登記とミートソースの因縁
「前の所有者が亡くなってるのに、なぜか抹消登記が進んでるんです」と彼女は言った。相続登記の手続きが省略されていたらしい。それはよくある話だが、話が進むほどに、まるで“何かを隠すため”に急いでいたような印象が強まった。ミートソースのように粘ついた、嫌な勘があった。
依頼人の告白
二度目の相続と名前の謎
「実は、父は再婚していたんです」と、依頼人がぽつりと漏らした。その事実は登記簿には一切記載されていなかった。再婚相手の名前も、戸籍にも見当たらない。相続人が一人多い。あるいは一人、意図的に消されている。相続と謄本は、嘘をつくこともある。
サザエさん方式では済まされない
「つまり、登記簿の中では家族が一人足りない…ってことですね」サトウさんが冷静にまとめる。まるでサザエさんの家族構成に見えて、実は波平の前妻の子がいた、みたいな話だ。「やれやれ、、、」と僕は思わずつぶやいた。今日はナポリタン日和だったはずなのに。
サトウさんの推理
手書きの謄本と偽造の可能性
「筆跡、照合しました。亡くなった方の過去の申請書類と比べると、一部の漢字の“とめ”と“はね”が違うんです」サトウさんは、プリンターの横から資料を持ってきた。字体の僅かな差異を見逃さない観察眼は、さすがだった。僕は黙ってコーヒーをすすった。
書類の癖と昭和の筆跡
「この“和”の字。昭和30年代の書き癖です」彼女はさらに続けた。若い女性が書いたにしては、妙に古い筆跡が見える。その正体は、再婚相手ではなく、被相続人本人を偽装した誰かか? いや、もっと根本的な問題が潜んでいる気がした。
午後三時の静寂
喫茶店の時計が止まった理由
再び「トリコロール」に戻った僕らは、壁の時計が午後三時で止まっていることに気づいた。「あの日も、時計止まってました」と依頼人が言った。電池切れではなかった。その時間こそが、登記の申請が行われた時間。その“死んだ時刻”が、書類の嘘を証明していた。
やれやれ、、、午後は油断できない
「全部、あの再婚相手が仕組んだのかもしれませんね」サトウさんが呟く。「遺産目当てで、登記まで細工を? 証拠は?」と僕が聞くと、彼女は鞄からUSBを取り出した。「喫茶店の防犯カメラ、午後三時。登記申請者は彼女じゃなかった」やれやれ、、、午後の静寂の裏には、だいたいロクなことが起きない。
最後の一手
判子の影にいた犯人
印鑑証明を精査したところ、申請に使われた印鑑は被相続人のものではなく、まったく別の人物のものだった。登記申請時に代理人として提出された委任状も偽造だった。つまり、全ては書類上のトリック。誰かが“完璧な登記”を演出していた。
冷めたナポリタンが示す結末
解決後、僕は事務所のデスクで冷めたナポリタンを見つめた。喫茶店の味と違って、コンビニのそれはなんとも味気ない。でも、なぜか今日はそれでもいい気がした。事件は終わり、サトウさんは黙って麦茶を飲んでいる。午後三時、登記簿は静かに真実を語っていた。