訂正印の余白
書類が戻ってきた日
午前十時を少し過ぎたころ、法務局からの返信書類が事務所に届いた。書留封筒の重みはいつもと変わらない。だが、それを受け取った瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
予感は当たる。封を切ってみれば、申請した登記が却下されていた。理由は「記載不備」だという。そんなはずはない。何重にも確認したはずの書類だった。
やれやれ、、、。椅子にもたれながら、思わず天井を見上げた。空調の音だけが、静かに事務所を満たしていた。
朝の書類チェックと違和感
その朝、確かに提出書類を再確認した。物件情報、登記原因、登記名義人、すべてに問題はなかったように思えた。いや、思いたかったのかもしれない。
だが、却下された今となっては、そのチェックに何か見落としがあったのだろう。何か、小さく、だが決定的なミスが。
ふと、書類のコピーを見直してみる。違和感があるのは、やはり申請人欄だ。訂正印が押されている。それも、妙な位置に。
サトウさんの無言の指摘
「この訂正印、ずれてますよ」 サトウさんがぽつりと言った。塩対応というより、もはや感情のない事実確認に近い。
「ずれてる?」と聞き返すと、彼女はスキャンデータをモニターに映した。そこには訂正印が申請人欄とまったく関係ない場所に押されていた。
まるで、訂正をしたように見せかけた“演出”のようだった。いや、そんなことがあるはずが、、、。
依頼人の口が重い理由
翌日、依頼人である中年男性が事務所を訪れた。手続きが滞ったことに、どこか安堵しているような態度だったのが気になった。
「すみませんね、迷惑をかけてしまって」と言いながら、彼は何かを隠しているような目をしていた。
事情を聞いても、歯切れが悪い。質問を重ねると、「いや、その、まあ親戚が代わりに、、、」と濁すばかりだった。
申請人欄にあった細工
再度原本を確認すると、申請人欄の訂正箇所が不自然だった。筆跡が異なる。もともと本人の署名ではなかったのだ。
訂正印を押したのも本人ではない。それなのに、訂正した箇所も曖昧なままだ。明らかに意図的な改ざんだった。
これは単なる「手続きミス」では済まされない。誰かが、この登記を“通らないよう”細工した可能性すらある。
「やれやれ、、、」とつぶやいて
「やれやれ、、、また面倒なことになった」 思わず口にした。それを聞いたサトウさんが、目線だけで「最初に気づきなさいよ」と言っているような空気を送ってきた。
まるで自分が波平で、彼女がカツオを叱るサザエさんのような図だ。立場が逆転している気がしてならない。
それでも、司法書士としてこのまま見過ごすわけにはいかなかった。
司法書士の意地と調査開始
役所に照会をかけ、依頼人の署名の筆跡と過去の書類とを比較してみた。案の定、今回の署名は本人のものとは違った。
加えて、訂正印の印影も旧姓のものであることが判明した。つまり、少なくとも10年以上前の印鑑が使われていた。
誰が、なぜそんなものを使ったのか。その答えは、依頼人が口を閉ざしていた“親戚”の中にあると踏んだ。
あの手続きには第三者がいた
依頼人の弟が以前から財産について口を出していたことを、近隣住民の証言で知った。しかも、不動産を売り払うことに強く反対していたという。
手続きが進んでしまえば、登記が完了してしまえば、不動産は売られてしまう。弟にとって、それは避けたかった未来なのだろう。
つまり、弟が申請書を“加工”し、訂正印をわざとズラすことで、手続きが却下されるよう仕向けたのだ。
元依頼人が語った真実
問い詰めると、依頼人はうつむいたまま語った。「弟が勝手にやった。でも、私も止められなかった」と。
兄弟の確執、売却への不安、そして家庭の事情。依頼人は真実に向き合うことを避けていた。
だが、それが法的なミスを生み、結果として全く関係のない私の事務所に影響を及ぼしていた。
手続きミスの責任の行方
責任はどこにあるのか。書類を提出した私か、署名をした本人か、それとも細工をした第三者か。
法務局は形式上「申請者側の記載不備」と判断する。しかし実際には、それ以上の闇が存在した。
私は、改めてすべてを正しく書き直し、依頼人と再度署名・押印を行った。今回は本人が自ら署名し、訂正印も真っ直ぐだった。
法務局職員のひとこと
数日後、再提出した書類を受け取った法務局職員がぽつりとつぶやいた。「前回の印鑑、よく気づきましたね」と。
「まぁ、職業柄ですから」と私は笑って返したが、内心ではひや汗をかいていた。あれは、ほとんど偶然の発見だったのだ。
だが、偶然を見逃さないことも、司法書士の“勘”というやつだと自分に言い聞かせた。
見逃された訂正印の意味
訂正印。それは、単なる修正の証ではない。時に、それは“誰かが何かを隠したい”という意思表示でもある。
見逃された訂正印の余白には、沈黙や秘密、そして未解決の感情が詰まっているのだ。
それに気づくかどうかで、すべての結果は変わる。
サトウさんの冷たい助言
「次はもうちょっと早く気づいてくださいね」 サトウさんが言った。言葉は冷たいが、差し出されたお茶は温かかった。
「はいはい、気をつけますよ、、、」 私は肩をすくめながら、もう一口だけお茶をすすった。
彼女の助けがなければ、この事件は未解決のままだっただろう。感謝は、ちゃんと胸にしまっておいた。
それでも私は書類を書く
誰が悪いのか、という問いに明確な答えはない。でも、少なくとも今回のような“余白”には気づけるようになった。
書類を書く。それは、誰かの人生の一部を背負うということだ。責任の重さにため息をつきつつも、私はまたペンを握る。
やれやれ、、、。それでも、今日も誰かの名前を書き込む仕事がある。
後日談と謎の手紙
数週間後、事務所に一通の手紙が届いた。差出人は例の依頼人の弟だった。「兄を守ってくれてありがとうございました」とだけ書かれていた。
文末には古い訂正印が押されていた。滲んだ印影に、どこか後悔と感謝がにじんでいたような気がした。
そして私は、その手紙をそっとファイルにしまい、次の登記の準備を始めた。