証明が消えた日
司法書士にとって保管証明書は命綱だ。それが消えたとなれば、信頼もろとも崩れ去る。この日、俺の事務所でその“崩壊”が静かに始まった。
夏の湿気が残る朝、俺はいつものように事務椅子に沈み込み、冷めた缶コーヒーをすすっていた。だが、サトウさんの冷たい声が、そのぬるま湯のような日常を切り裂いた。
午前九時の来客
ドアを開けたのは中年の男だった。服装に派手さはないが、妙に落ち着いた雰囲気がある。「保管していただいた証明書の件で……」と彼は言った。
茶封筒を差し出す彼の手は震えていた。俺は受け取り、机の上にそっと置いた。封筒には俺の字で「保管証明在中」と書かれていたが、中身は――空だった。
古びた茶封筒の中身
サトウさんがすかさず封筒を持ち、ライトで中を照らす。ホチキスの痕すらない、まっさらな茶封筒だった。「もともと入ってなかったんじゃ?」俺がそう言うと、彼女は目も合わせず「ありえません」と即答した。
たしかに俺は、数ヶ月前にこの依頼人から保管を依頼された。あのとき受け取ったのは間違いなく正式な登記識別情報だった。つまり、何者かが封筒の中身をすり替えたのだ。
保管証明の違和感
俺の事務所では、重要書類は金庫に保管するのが基本だ。だがこの封筒だけは、「取り急ぎ棚のファイルに挟んでおいた」記憶がある。うっかりしていた。
サザエさんで言えば、波平がハンコを玄関に置いたまま出勤したようなものだ。誰かがそれを見逃さなかったのかもしれない。
消えた登記識別情報
登記識別情報があれば、なりすましで不正な売却登記ができてしまう。実害が出る前に、手を打たねばならない。俺は資料棚を一つ一つ確認し始めた。
だが、どこにも封筒の中身に関する手がかりはない。ただ一つ、棚の裏から小さなメモが出てきた。「鍵のない保管は信頼の死」とだけ書かれていた。
サトウさんの直感
「鍵のない保管」――その言葉にサトウさんがぴくりと反応した。彼女は手帳を取り出し、ある日付を示した。「この日、誰かが来てましたよね」
確かに、役所の職員を名乗る男が「所有権保存登記の参考資料が見たい」と訪れた日があった。応対は俺で、サトウさんは外出していた。まさか、あれが……?
封筒に残された痕跡
もう一度、封筒を確認すると、粘着部分がわずかに剥がされた痕があった。完璧に閉じたように見えて、実は一度開けられていたのだ。
これは単なるすり替えではない。中身を抜かれたあと、封筒は何事もなかったかのように戻されていた。まるで、怪盗キッドのような手口だった。
かつての依頼人を訪ねて
証明書を預けた本人に話を聞くべく、依頼人のもとへ向かった。彼は青ざめた顔で俺を迎えた。自分は誰にもそのことを話していないという。
だが、机の上に置かれた別の封筒が目に入った。差出人は……俺の名前だった。「これは?」と尋ねると、彼は「ついさっきポストに入っていた」と言った。
過去の登記に潜む影
その封筒を開けると、そこには“偽造された保管証明”が入っていた。俺の署名も印鑑も完璧にコピーされている。だが、ほんの僅かに使用した印影の形が異なる。
これは、かつての登記のコピーを流用した偽造だ。俺たちの過去の仕事が、まさか犯罪に利用されるとは……。
やれやれの捜索劇
「やれやれ、、、まさか俺のうっかりが、ここまで広がるとはな」俺は頭をかきながら、コピー元の登記簿謄本を引っ張り出した。
その登記は三年前の所有権保存登記で、依頼人は……例の役所職員を名乗った男だった。仮名だったが、サトウさんが調査で裏を取っていた。
誰が証明書を動かしたのか
保管場所にアクセスできたのは、あの日の俺だけだ。つまり、男は俺のうっかりを計算に入れていた。棚の位置、来客のタイミング、俺の性格まで。
「一度も本物に触れていないのに偽物を届けた」――そんな完璧な犯行は、まるでルパン三世の仕業のようだった。
暴かれる保管の罠
サトウさんが決定的な証拠を突きつけた。監視カメラに映っていたのは、俺が目を離した一瞬にスーツ姿で棚に触れる男の姿。しかもその男は、名刺を置いていかなかった。
その映像はモノクロだが、動きには迷いがなかった。まるで訓練された泥棒のような手際。もう、言い逃れはできない。
もうひとつの依頼書
映像の男の手に握られていた書類。それは、偽造された依頼書だった。そこには、サトウさんの名前が記載されていたが、署名は全くの別人の筆跡だった。
つまり、彼女になりすました偽の依頼人が、巧みに偽造書類とすり替えを実行していたということだ。徹底的な準備、そして……油断。
真犯人は誰か
登記に関する利権を狙う不動産ブローカーの名が浮上した。過去に何度かトラブルになった業者だった。彼は現在、複数の司法書士と係争中だった。
証明書があれば、所有者になりすまして登記変更も可能になる。危うく、俺の事務所が“実行犯”にされるところだった。
登記に絡む利権
証明書を盗む動機は十分だった。そして、俺の「保管場所が金庫ではなかった」という凡ミスが彼らにチャンスを与えた。
サトウさんが静かに言った。「だから言ったんですよ、ちゃんと金庫に入れましょうって」やれやれ、、、確かに、俺の負けだ。
すべてがつながった瞬間
警察に映像と証拠を提出し、男は数日後に逮捕された。調査の結果、複数の司法書士事務所でも同様の被害があったことが判明した。
俺の失態が事件解決の糸口になったわけで、まさに「負けて勝つ」展開だった。……野球なら、エラーからの逆転サヨナラだ。
結末とその後
封筒は、今度こそ金庫に入れた。いや、入れる前にサトウさんに預けた。俺より信用できるのは、彼女くらいしかいない。
事務所は今日も変わらず、依頼者がやってくる。けれど、俺の心にはひとつだけ変化があった。「油断せずに鍵をかける」ことを学んだのだ。